骨肉の(一方的暴力)

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昨日は父親とLINEで雑談をした。父親はちょっとションボリしていた。どうしたの? と聞いたところ、

「妻が毎月末は仕事で何日も家を空けるようになった。私はその間、一人で孤独にモスバーガーオリジン弁当を食べている。きょうもモスバーガーを食べた。仕事は全然終わらない。徹夜で仕事をしなければならないのに、仕事をしたくなさすぎて妖怪人間ベムをいっぱい見てしまった。あと最近は認知症になりたくないので脳トレをしている」

ということを言い出したので「ウケる〜」とだけ返信した。ちゃらんぽらんの次女。

その後、母親に「父からこういうメッセージがきていたよ」と晒し上げした(倫理観ちゃらんぽらんの次女)。

母は「家出発したの昨日やし、仕事は全部で4日やし、そんな絶望するほど長くもないし、わろたらあかんとは思うけど正直まあこれは・・・」と失笑していた。この夫婦仲良いね。

 

父や母と話していると、自分はこの男とこの女の娘だなと思う。

ハタチぐらいの頃の私は、自分自身が嫌いだったので(ハタチぐらいで自分のことがパーフェクトに好きな人っているのかな)、自分がこんなクソアマなのは、こんなふうに私を育てた親のせいだ! と思っていたのだが、

だんだんアラサーになって自分を好きになるにつれ、まあ良いとこも悪いところも含めて親だよな、と思うようになった。今はむしろ、どちらかというと良いところのほうが多い親だよな、と思っている。

 

息子は将来、私のことをどんな親だと思うんだろう。

教育失敗だよボケ! とか思うんだろうか。カナダにい続けてくれれば英語だって喋れたし箔がついたのによお! とか。体力もねえのに子供産むんじゃねえよ! とか。年収300億の親のもとに産まれたかったわ! とか(私も年収300億には憧れます)。

元気に反抗してくれたらいいけど、一人で日記に「産まれてきたくなかった」とか書いてたら結構悲しいな。私も似たような気持ちを抱えたことがあるし、夫と出会っていなかったらずっと「生きるの本当に嫌だな」と思い続けていただろうし。ラッキーなことが起こらないと「産まれてきたくなかった」という状態は抜け出せないものな。

 

生きることはまさしく運ゲーなんだけど、私はどうして「いいガチャが当たりますように」と願いながら、他人の人生でギャンブルを打ったんだろう? 産んで、子供に生きろと命令することは、誰かを殺すことと同じぐらい、本当の意味では責任が取れない。

 

明確な答えを出せたためしがない。多分、これからも出せないんだろうな。

 

そもそも、「子供を産む」っていうのは、人間の、ものすご〜く動物的な一面なので、言葉や論理が通用しないのだと思う。高度に社会化された私たちの暮らしの中で、ちょっとギョッとしてしまうぐらいにケダモノっぽい営み。血と臓腑が私たちを支配するそのたくらみの一連。

「平時」の脳では、子供を産むことの正当化なんてできない。そもそも産むなんて暴力でしかない。暴力は正当化できない。

でも私たちは動物で、産むと嬉しくなってしまう。ああ産みたい、と思う。それはセックスがしたい、と思うのと同じだ。産みたいと思う。そこに理屈はない。産んだら最高だろうなという謎の直感。身体に脳をあずけてしまうということ。そういう無言語性の中にだけ出産は存在する。

 

重要なのは、人間は動物だけれども、でも同時に、言語を持っているということだ。私たちは法律に従って行動できる。だから見知らぬ他人を殺さないしレイプしない。

産むことは、殺すことと同じだ。だから社会のルールを守るなら産むべきではない。

私は社会からの「ルールを守れ」という要請に、本質的な意味では応えなかった。

産まれてくる我が子に苦痛を与えても構わないから、私自身の「産みたい」という欲望を優先させたい、と思った。それは明確に逸脱だ。私は逸脱し、そして産んだ。

 

産むことは動物的だ。産まない人は社会的だ。産むのも産まないのも違法ではないので、私たちはそれに「良い」とか「悪い」とか「どちらのほうが優れている」ということはいえない。

 

反出生主義を扱ったというので話題になった『夏物語』を読んだとき、読んだ直後は結構感動したんだけど、読み終わってしばらくしてからちょっと落ち込んだのを覚えている。

「色々考えたけどやっぱり産むことって素晴らしいよね」というストーリーはつらい。そこに感動してしまう自分がつらい。

私は産んでしまった自分を肯定したいので、「会いたかった」というチープなフレーズや、出産というドラマチックな絵に、結構流されてしまう。「やっぱり出産って最高だよね、悩んだけど産んでよかった!!」と言ってくれる人が現れると、ありがとうございます!! と飛びついてしまう。

 

でも、本当はきちんと「産んだって産まなくたってどっちでも良いだろ」とか「産まない人間を善さんみたいに分かりやすい"かわいそう"な人間にするな」というような具合にマジギレしないといけない。

女王蜂のアヴちゃんは「単館系ジェンダームービー 主人公は病むか死ぬか恋に敗れるか ちょっと判んないね」(FLAT)と歌ったけれども、そういうことなんだよなと思う。

私たちは「普通ではないもの」に「普通ではない理屈」とか「普通ではないオチ」をつけて、「ああこの人は私と違う宇宙で生きているんだ」と納得しようとしてしまう。

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社会の要請にこたえて「産みません」と言える人は別に異常な人間でもなんでもない。そこにストーリーは存在しない。あなたが道ゆく人間の指を無意味にへし折らない、そのことに意味などないのと同じように。

 

私は社会のルールなんてどうでもよかった。生きろと強要したって構わないと思った。だから産んだ。

 

息子は将来、私をどんな親だと評価するんだろう。その評価を甘んじて受けなければいけないことが今からとてもつらい。嫌な母親だったと思われたくはないのだが、多分私は結構嫌な母親だ。

 

*

 

昨日も息子と散歩をした。仕事をまるでしていない。お気に入りの和菓子屋さんに行こうと思ったら定休日だったので、悲しすぎて息子と二人でコンビニのパンをやけ食い。

 

昼の散歩から帰ってきたら、お大根さまからコメントをいただいていた。そう、noteをボチボチ書いていた頃に仲良くさせて_いただいて_おりました(三重敬語)、お大根様である。

えっ!? 嘘でしょ!? note辞めたのって何年前よ!??(半年前)そこから定期的に私の動向を見ていてくださっており、はてブに移行してすぐにコメントをいただいたってこと!? 

じゃあそれってすごくない!?!

 

自慢のように聞こえるかもしれないのだが自慢である。私は自慢をするのが好きなのだ(誇らしいから)。

 

あと、このみちゃんからハーゲンダッツももらった。やった〜。元気の出ない日曜日・午後3時半とかに家族みんなで食べて「今日はもうこれが夕食ってことでいいのでは」と提案し可決される予定。ありがとうこのみちゃん!

これも自慢。このみちゃんに愛されている己がとっても誇らしい。

 

あときょうはすごくいい本も届いたんだ・・・。

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『目でみる民族神』1〜3巻(東京美術、1988年)。みんな好きでしょこれ。

日本を中心に(アジアも)、各地域の民族が信じているお祭りとか風習を、図版とともに紹介するの。

たとえば。

石垣島川平(カビラ)の節祭(シツサイ)にマユンガナシが来訪する。この祭りを境に節が改まるので「初正月」ともいっている。(中略)川平ではクラヤシキで神の扮装を解くが、このとき口々に「コココッー、コココッー」とニワトリの鳴くまねをする。この行為をカムスディル(神孵)という。スディルが孵化することで、神から人間に再生することを意味する。マユンナガシの棲む世界は極端にいえば"卵"ということになる。

(第二巻、56ページより)

ああ〜最高だ。こういうのが好きなんだよ私は。

 

まあ、そのような感じだった。仕事も片付いてきたし、お友達とも交流したし、かなり元気になってきたね。仕事終わらせるぞ〜