短編小説 | おしゃれしてお出かけしようね明日は

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ごとんと首をきりおとしたニンジンには「す」が入っている。あいた穴はまるでニンジンが意思を持っていることの証明みたいで、きもちがわるい。みないように、みないようにしながら手早くいちょう切りにした。

紗里にたべさせるニンジンなのに、こんな、栄養がぬけきったようなものを。ふがいなくてたまらない。でも、もう残っている野菜はこれだけなのだ。だから、しかたがない。

オレンジ色の首をかじると、あごの骨のなる音がした。

 

最近はずっと、しかたがない、と思っている。あたたかくなって、花粉の時期もおわって、これから私たちは夏をむかえる。去年と同じ、あつい夏になるだろう。それできっと、たくさんの人が死ぬ。でも、しかたがない。

 

野菜を、紗里に食べさせたい、と私が言ったので、大樹はむぼうにも外に出た。出たまま、もう戻ってこなかった。私も、紗里も、多分彼が戻ってくることはもうない、と思っていて、でも、毎日「おとうさん帰ってこないね」と言いあう。おはよう、とか、おやすみ、のように、彼の安否をきづかう。

それはお芝居みたいだ。私も紗里も、お互いがお互いにうそをついていることを知っている。踏み抜かないでね、と、わたしは紗里に祈る。彼女も同じようなことを祈っているにちがいない。示し合わせたわけでもないのに。私のこどもは、いつのまに、そういうむずかしいコミュニケーションの取り方ができるようになったのだろう。

 

紗里はあたまがわるかった。今もわるい。紗里のランドセルの奥には、くちゃくちゃになった算数のテスト用紙が入っている。一度も100点なんて取ってこなかった。

くもんも一瞬だけ通わせたし、『うんこドリル』だって買ってみた。でも、紗里はそもそも、正解について考えることが不得手なのだ。この世には正解がある、とか、不正解がある、とか、頭がいい、とか、悪い、とか。

それならそれでいいよ、と私と大樹は言った。紗里は、紗里の好きなことを見つけて、それを大事にできたらいいんだよ。夢中になれることを見つけられたら、それでいいんだよ。

 

それで結局、紗里が好きだったのは、男の子とするエッチなことと、漫画を読むこと、それから、同級生のわるぐちを言うことだけだった。

紗里が同級生のわるぐちを言っているのを知ったのは、PTAの臨時集会でだった。真美ちゃんのお母さんがLINEのスクリーンショットをプリントして配る。しろくろで印刷された紙は刷りたてらしくて、インクがちょっとだけ指についた。

紗里は、クラスで流行っているらしい歌をもじって、真美ちゃんがいかにブスかをおもしろおかしくクラスのみんなに伝えていた。「お金も才能もなまじっかないだけ厄介でやんす」。

 

ああ、ばかだ、とわたしはおもった。クラス全員が入っているグループチャットで、名指しでわるぐちを言うなんて。わるぐちはもっとぼんやりとした形でいうものなのに。

臨時集会があってから2週間後、家に帰ってきた大樹に集会の話をした。大樹はわたしが最後まで話しおわらないうちに紗里をおおごえで呼びつけると、「人の悪口を言うな」と彼女に怒鳴る。寝ていたのを急に起こされた紗里は、じいっとかたまったあと、かたまったそのままで、くったりと涙を流した。

ちがう、とわたしは思う。大樹はいつでも、変にずれた怒り方をするのだ。それはわたしと彼がまだ恋人同士だったころからそうだった。

わたしはすこしだけ紗里に同情する。「こういう父親を持って育つことは大変だね」と、声にはださずにそうおもう。

 

「だからね」。

 

わたしたちの住む左手川市が「こういうこと」になってしまってから、きょうで2週間が経つ。たぶん、感染は他の市にもひろがっているのだろう。コロナの感染拡大だってふせげなかったんだから、きっとそうだ。何より、もしもふせげているなら、救援なりなんなりがすでにきているはずなのだ。だけど、通りには呻き声しかきこえない。

食料も、買い置きしてあった水も、もうほとんど残っていない。電気もガスも、水も出ない。インターネットも見られない。外に出ないかぎり、私たちは飢えて死ぬのだ。

 

レースカーテンをすこしだけずらして、二重ガラスの外を見やる。もともと林さんだった「それ」が、いつもどおり庭の外をほうきで掃除しようとしていた。あとすこしでもレースカーテンを動かせば、きっとわたしに気づいて襲いかかってくるのに違いない。

林さんの首には、我が家で使っていた包丁がささっている。大樹があの日、襲ってきた林さんに向かって刺した包丁。セラミック製で、つるつるしていて、まっぴんくで、林さんにはちっとも似合わない。

 

林さんを地面にどうと倒した大樹は「ウス」と小さな声でガッツポーズをすると、わたしのほうを少しだけみてから、向田公園のほうに走って行った。「え、イトヨ行くんだ」とわたしは思う。5秒前まで感じていた、頼もしい夫を持った幸福、そのもの、みたいな、そういう感情がしゅうと霧散していく。

胸のうちにひらめく閃光のような怒りを、ゆっくりと噛みくだく。じゃりじゃりした喉から息を出す。

うちの近所でどこが一番安いスーパーなのかも分からないのだ。大樹は。墨田の家にずっといるから。墨田の家にずっとずっといるから。

 

林さんは地面の上でのたうちまわっている。射精をしているみたいだ、と一瞬思った。

意思はないのにうごく物。

 

夕方になると林さんの家の玄関には電気がともる。林さんの奥さんが帰ってくるからだ。駅のほうから歩いてくるから、たぶん、毎日のように通っていたフィットネス・クラブに、ああいうふうになっても通っているのだろう。

大樹が出て行った日も、彼女は駅のほうから自宅までかえってきた。手にはエコバッグを持っている。玄関の階段をのぼろうとして、彼女はつまずいた。下に目をやると、包丁を喉につきたたせ、地面に横たわり天をあおぐ夫がいる。彼女は少しだけうろたえた。ように見えた。呻きながら夫を立たせると、そのまま鍵をあけて家に入っていく。

 

林さん夫婦は、お互いが人間じゃなくなってしまったあとも、あたりまえのように、以前の生活を続けようとしている。近所をぶらついて、運動をして、夕食を夫婦ふたりで食べる。もしかしたら二人の中では、こうなってしまった前と後で、そんなに劇的な変化は起きていないんじゃないのか、とすら思った。

 

フィットネス・クラブには、林さんの奥さんのおともだちも通ってきているんだろうか。通ってきているとしたら、きっと全員が「そういうこと」になっているはずだ。「そういうこと」になった林さんの奥さんと、林さんの奥さんのおともだちは、以前と同じような、ゆうじょう、とか、あいじょう、みたいなものを、お互いにかんじたりするのだろうか。

そうだとしたら、その生活は、もしかすると。

 

「紗里なんて名前」ふと、あの人のことばをおもいだした。「なんだかサリドマイドみたいで嫌だってね、私どもでは思っていたんですよ」白檀のかおりが脳の奥をかすめてゆく。

「奇形が生まれてほしいって願ってるみたいだよね。なんか派手だしね。わたしたちはああいうセンス分からないけど。やっぱりおかーさんが名古屋育ちだからそういう名前になるんですかね? やだ、名古屋はお世話になってるひともいっぱいいるからこんなこと言われんけど。こんな、ねえ。言っちゃ悪いけど、10歳かそこらで男の子におっぱい見せるなんて、まるで獣みたいっていうかね。まあ初めての孫じゃないからいいようなもんだけど」

 

どうせ死んだよ。

 

わたしはまないたの上をみつめる。切り刻まれたにんじんがばらばらと散置されていて、その一つ一つに、「す」の存在した証拠がみえる。自分に言い聞かせる。どうせ死んじゃったよ。大丈夫。どうせ死んじゃったよ、痛い苦しいつらいって思いながら死んじゃったよ。死んだよ。死んだよあのババアは。死んだよ。ほんとうに死んだって。

 

「ねえ紗里」「なに?」「にんじん」

 

たまらなくなって紗里をよぶと、紗里は持っていた漫画をすっと床においた。

 

「うん」

 

すききらいなくなって良かったよね。冗談で言ったことがある。なんでも食べないと生きていけないもんね。まだあのころ、笑顔は笑顔として機能していた。「紗里」「うん?」「もうご飯ないよ」「うん」

手渡したにんじんに穴があいていたことにも気づかないまま、紗里はオレンジ色の物体を噛み砕き始める。

「紗里は生きてたい?」

そう聞くと、彼女は一重まぶたをつうとあげた。「わかんない」どうしてこんな顔の女の子が、男の子に性欲をおぼえさせることに成功できるんだろう。わからない、わたしもそう思う。

「わかんないって?」

紗里はこたえない。

しばらくニンジンを咀嚼したあと、紗里はめずらしく口をひらいた。「わたしね、痛くないなら別にゾンビになってもいい」わたしは紗里のもったりとした鼻声にかすかな苛立ちを覚える。お腹が空いた。「そう?」「うん」

紗里はなおも続ける。「だってさあ」「うん」「だって」「うん」「・・・っていうか、林さんとか」「だよね」「見てるとね」「うん」

 

紗里をきずつけたい。紗里が泣いてくれたらいいのに。紗里と話しているといつも、怒りのような熱で、じぶんのはらわたがいっぱいになってしまう。「紗里」「何?」「おとうさん、ゾンビにかこまれちゃって、かえれないだけかもよ、死んだんじゃなくて」

 

おとうさん、死んだんだろうなって、思ってるでしょ。わたしのそういう意図に、紗里が気づいたかどうかは分からない。とにかく紗里は、わたしのほうをちらりと見ると、はきすてるようにこういった。「ゾンビになって、墨田のおうちに帰ったんじゃない」

 

わたしが「それ」になったら、わたしは何をするんだろう。

 

わたしの体がおぼえている「わたしの暮らし」はどんなものだろう。

紗里にごはんをつくってやること、大樹をまつこと、求人サイトをみること、がるちゃんをみること、インスタグラムをみること、カーテンを開けること、カーテンを閉めること。

わたしは生きたいようなきがする。わたしは死にたいようなきがする。分からない。

いずれにしても、わたしはさいきん、場違いなほどに安堵している。

 

「ねえもしゾンビになるならさ、いいよ、メイク、ファンデから全部やっても」紗里にそう言ってわらうと、「いいの?」紗里はぱっと顔をあかるくした。「サイコーじゃん」「でも、すぐドロドロになるんじゃない?」「落ちづらいやつにして」「うん」「クッションファンデある?」「なんでクッションファンデなんて知ってるの」「なんか、いいって、昔動画でみた」「ふーん」「ある?」「ないよ」「なんで」「リキッドしかないから」「リキッドって何?」「見たら分かるよ」

 

わたしたちは笑う。化粧をして身綺麗にありたいと思う。何かを食べたいと思う。外に出たいと思う。幸福でありたいと思う。できれば世界でいちばん。

 

わたしたちはドアを開ける、外に出る。多分。いつかきっと。どうにせよ。