日本社会事業大学の、社会的養護に関する授業を受ける。
色々思うことがあるのでまとめます。
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実際問題「里親」って、「産まずに我が子を育てる手段」として認識されていると思う。そうじゃないふうに里親を捉えている人ってどれぐらいいるんだろう。
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でも実際、社会的養護の現場では、子供は基本的に親元に戻すべきだ、という考えが前提なんだよな。
これには私も賛成する。直感的には「なんでだよ」って思うんだけど、よくよく考えてみると、まあ、親の多くは、きちんとしたケアを受けられて、生活がうまく回るようになれば、子供を引き取れると思う。
っていうか、よほどの事情がない限り、育てられないことが容易に想定できる環境で妊娠しちゃった女って、中絶するよ。わざわざ10ヶ月も放置して、胎動のたびに苦しんで、無のために陣痛に耐えたりしないでしょう。中絶するほうが楽なのは確実。
それでも産んだっていうのは、「子供に愛情があった」とか「金銭的な事情でどうしようもなかった」とか「宗教的に中絶できなかった」とか「妊娠に気づかないまま後期になってしまった」とか、まあ色々あるんだろうけど、
結構多くのパターンが、適切なケアさえあればきちんと子供を育てられるんじゃないか、と思う。
っていうか、私なら、出産を経て、その結果、何も得られないなんて耐えられないよ。苦痛にはそれなりの報酬があるべき、と感じてしまうのは、人間として当然の心の動きでは。
さらに、子供のがわも、ルーツを二重・三重に持ち、なぜ自分は捨てられたのか? と問い続ける人生を送るより、実の親に育てられたほうが、シンプルでいいのではないか・・・と思います。これは子供の気持ちを勝手に代弁しているのでどうなんだという感じだけど。
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そういうわけで、里親という制度を考えてみると、この「子供は親元に戻すべき」という大前提から考えると、かなり異質というか、この原則から外れたがる存在である感じがするというか・・・。
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だからこそ、違和感があるのは、昨今の日本、というより世界的な流れとして、「家庭的養育」はむしろ推し進められているんだよな。家庭的養育というのはつまり、できる限り施設よりも里親に委託しましょうということ。
そしてこの「里親」っていうのは、少なくとも日本では、「特別養子縁組」ではなくて、「里親」なんだよね。もちろん特別養子縁組を推進する動きもあるんだけど。
でも、特別養子縁組の場合は、公的な機関ではほとんどケースが成立しないんだよな。民間機関に60〜200万円ぐらいのお金を払う必要がある。
公的な機関では、やっぱり、子供っていうのは親元に戻すべきで、家庭的養育が必要な場合も、特別養子縁組じゃなくて、まずは里親が一時的にケアするべきだろ、と考えている(ように見える)。
でも、それなら施設のほうが、きちんと「親元に戻す」ことを最初から意識できるのでは? と思うんだ。
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なんだかね。
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何がモヤモヤするって、それって、「愛情の美味しいとこどり」じゃんって思っちゃうんだよな。
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やっぱり育てた子供ってめちゃくちゃ可愛いじゃん。血の繋がりなんてどうでもいいじゃん。
みんな恋人への愛って、恋人が兄弟だったらより深まるなあとか思わないでしょ。
それと同じで、他人だろうが、一緒にご飯食べて、寝て、長い時間を過ごしたら、それってもう別に、血の繋がりとか関係なく、とてもとても重要な人になるものだと思う。
その、「とてもとても重要な人」として愛することに、うーん、あくまで無私でなければならないのが、つらいなあと思う。
「とてもとても重要な人」を取られる苦しみに耐えろと言われているようなものだけど、それってどうなんだ。PTSDになっちゃうよ。
恋愛と子供への愛は、ほとんど同じものだと考えると、里親って、不倫みたいなものだよな。愛情の美味しいとこどりなんだ。
愛する対象を剥奪される悲しみ、実親から子供を、そして子供から実親を奪ってしまうやましさ、子供に「実親よりも私を愛してくれたらいいのに」と思ってしまう残酷な気持ちに見て見ぬ振りをすること、
そういう、感情の大きな波みたいなものが、あるんじゃないか、と思う。
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やっぱり最初から里親なんてなかったらいいんじゃないの? と思ってしまう。特別養子縁組か、施設だけで良くない?
親になれると分かっているか、親元に返すと最初から理解しているか。これなら物事がシンプルじゃん、と思う。
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どちらともつかない制度って、どうなんだ。
だってやっぱり、いつだって「親になれるのか」が一番重要じゃない? みんなもっと公的にドライに里親やってんのかなあ。
親になるのか、ならないのか、どっちつかずの事態が何年も続くような里親制度って、やっぱり、なんか違うんじゃないの、と思ってしまう。