私の母は私を騙した

 私の母は私を騙した。

 母が自然な形で子を産むことができないのは、それは、当たり前のことだった。父と母は愛し合ってなどおらず、性行すら満足に成し遂げることができず、家の中はいつでも、張り詰めた緊張感に満ち満ちていた。

 私が産声を上げたとき、母は42歳だった。父は50歳だった。

 母が身罷ることのできなかったのは、母のせいであったのかもしれない、父のせいであったのかもしれない。どちらにせよ二人は歳を取りすぎていた。

 母は薬を飲んで、何匹もの卵子を体内で育てる。時期がくれば体の中に針を入れ、蠢くそれらを採取した。そうしてその卵に、父の精子が注入されたのだ。

 父の精子は、そのほとんどが愚鈍にしか動くことができなかった。ひっそりと静まり返った顕微鏡の中で、狂ったように動き回る「元気な精子」。父の精子たちはきっと、父自身のことをすでに諦めていたのに違いない。「僕たちは生殖をするべきではない」「遺伝子を次世代に残すべきではない」と。利己的な他の精子たちの考えも聞かず、「元気な精子」は母の持つ「元気な卵子」と出会った。

 母は完成した受精卵を自らの子宮に入れ込み、妊娠継続確率を高めるための注射を何度も何度も打った。妊娠5週の時点で会社を躊躇なく休職した。おりものに茶色い血の塊が混じっているたびに病院に飛んでいった。何度も何度も追加の料金を支払い、膣にカメラを入れ、「前回よりも大きくなっていますよ」と医師が言う、その一言を聞くためだけに母は毎度飽きずに5000円を支払い、病院を太らせた。

 それは母からのメッセージであった。「私はあなたのためにどんな我慢でもする、何千万でも金をかける」と。「だから生きろ」と。かつて受精卵であった私は、おろかにも、その通信に答えてしまった。

「あなたに会うためなら」、母の尻に打たれたホルモン注射が私にそんなふうに語りかける。「私は自然の摂理さえねじまげてしまう。もちろんタバコも吸わない、お酒も飲まない、けしてイライラしない、働かない。もちろん、働かずとも、それなりに豊かな生活は保証する。私はいつでもあなたのことを考えている、あなたを守るために自分の命さえ提供する」

 そういう契約のもと、私は生まれたはずであった。

 いざこの世に生を受けたとき、私の母は、私が母乳を飲むのが下手だというので、私の頭をはたいた。

 母は、己の乳房から白い液体が垂れてくる、その滑稽さが不愉快だった。彼女は生まれてこのかた一度も、滑稽な生き物であったことはなかったのに。いつでも「正解」の解答だけを出すことのできていた母。次の試験で自分が取れる点数を高めることだけを考えていた母。それが今や、乳房から白い乳をたらし、キャミソールにお漏らしのようなあとを付ける。

 たかが子供を産んだ程度のことで。彼女は私のことが憎らしかった。

 乳房から乳が生産される、その直前に、乳首がギュウと絞られる。その感覚が不愉快で、「ああ乳が出る」とつぶやきながら、いつでも彼女は顔をしかめた。それは確かに不快なことであった。白い乳の出る胸、レーズンのような真っ黒い乳首、うっすら生えた長い体毛。

 彼女はときどきコーヒーを飲んだ。そのまま、私に乳を吸わせた。カフェインの溶けた乳を私は飲んだ。母はブラックコーヒーの匂いに、官能すら感じているようだった。奪われた青春の味をそこに覚えていたのだ。

 母はじきに復職した。保育園の空きはついに出なかったので、彼女は月に10万円を支払って、私を認可外の保育園に預けた。10万円を支払う価値がある、と彼女は考えたのだ。私と離れることには。

 彼女はもっとたくさんのコーヒーを飲んだ。ときにはタバコを吸った。酒も飲んだ。糞のような臭いのする息を私に吐きかけながら、彼女は「1年も我慢した、もう我慢しなくて済む」と笑った。私の体に有害な乳を生産すること。彼女にとってはそれが、麻薬的な快楽であった。

 私は夜泣きの激しい乳児であった。私は夜泣きをすることに安心しきっていた。何の疑問も持たずに耳障りな泣き声をあげた。だって、母は私をあやしてくれる契約であったからだ。どんな苦難が起こっても、子供のいない苦難よりはマシ、と、母は何度も己に言い聞かせたはずであった。生理がくるたびに願ったはずではなかったのか。赤ちゃんが来てくれるならなんだってしますと。

 母は躊躇なく私に呪詛をぶつけた。「寝ろって言ってんだよ、クソガキ」「死んでくれたらいいのに」「せっかく産んであげたのに」。私の脚ははたかれ、私の髪の毛は引っ張られ、私の頬は打たれた。私は当然泣いた。喪失を泣いた。自然の摂理すらねじまげて、私に会うためなら何でもすると言った人が、この世のどこにももう存在しない、その喪失を。泣き喚きながら、私の脳は何度も何度も、自分が全てを失ってしまったことを反芻した。

 では私は何のために。

 あの応答は何のために。

 それでも私は死ぬことができなかった。

 私の脳みそは、勉強をするためには作られていなかった。ピアノをするためにも作られていなかった。バレエをするためにも作られていなかった。人間とうまくやっていくためにも作られていなかった。

 私の部屋はいつでも、おぞましい量の物質でいっぱいだった。そのどれもが私にとっては重要なものであると思えた。そのどれかを失ってしまえば、私という人間の形は損なわれ、永遠に戻らないのだと思った。あらゆる場所は開放されているのだが、そのそれぞれの場所に、いったいぜんたい何が存置されてあるのか、私は知らなかった。

 ものの場所、という概念を知るのは、私がようやく十五才になったときだ。ものというのは、偶然、どこかに存在してしまうものだとばかり思っていた。ものが存在したいと思う場所を、人間がコントロールできるとは、私はどうも思えなかった。今でも本当は、ものは意思を持って、いるべき場所を主張するのだと思っている。

 私が16歳のとき、父がお漏らしをするようになった。小便で黄ばんだ父の白いブリーフは、まるで当たり前かのように、洗面台に放置されていた。父のいないアパートで、仕事から帰ってきた母はそのブリーフを目にする。「最悪」といいながら割り箸でそれをつまみ、ビニール袋にいれ、硬く縛った。2週間後の日曜日、父は母に向かって「最近、俺のパンツ少ないんだよね」とぼやいた。「盗まれてんのかな。ブリーフだからさ、女の人が履いてると思ったりするのかな。馬鹿だよね」

 私が大学に合格した頃、父はキャバクラで知り合った「真夜」ちゃんに四千万円のアパートを買った。真夜ちゃんは十九歳で、アパートの広さは2DK。光が丘駅から徒歩9分と、Suumoには記載されていた。父は「真夜ちゃんは大学生で、一人暮らしで、お金がないと聞いたから」と言った。リバースモーゲージローンを使って、頭金は退職金。家のリフォームをするという話は立ち消え、私の部屋の床はたわんだままになった。

 私は大学進学を諦めた。奨学金の申請時期が既に終わっていたからだ。母は泣いた。私の将来のことを思っては苦しんだ。「あなたぐらい顔が悪い子が大学にすら行けないなんて、もう終わりだね」と告げた。私もその通りだと思った。でも、バイトをしてまで勉強をしたいとも思えなかった。私は母が常々言う通り、向学心がなかった。

 父はそのアパートで真夜ちゃんと暮らすつもりだったらしいが、一方の真夜ちゃんはその部屋で彼氏と同棲を始めた。真夜ちゃんはそのうち妊娠し、父にストーカーされて困っていると母に電話をかけた。

 父は全てが終わったあと「高い勉強料だった」と照れたように笑った。

 母は泣いていた。母の完璧な人生が壊れてしまったから。手取り30万円、バレンシアガのバッグ、子供、マイホーム、自分の複雑な親子関係に理解を示してくれる夫。

 父は母が、母に手取りの半分を渡すことを許した。「俺が稼げばいいんだから」と言った。「俺、手取り二五万円だから、むしろ三十万円も稼がれると肩身が狭い」。母は父の優しさに、そのときだけは感謝した。

「どうして、嘘までついて、私をこの世に産まれさせたの」そう私が問うたとき、母はドラマチックに泣いた。ツーと涙を流した。そんな問いを待っていた、とでも言いたげだった。「あなたに会いたかったから」

 それは『夏物語』をパクっているのだ。母がこのフレーズにいたく感銘を受けたことを私は知っていた。ふせんが貼ってあったから。私も母に会いたかった。でもそれは目の前にいる女に会いたいという意味ではない。

 私が会いたかった母なるもの。

 そんな生き物はいないのだと私は知っている。私だってそれぐらいのことは知っている。膨らんだ腹を撫でながらそんなことを思う。

 母性なんて嘘だ。幻想だ。それなら最初からそう言ってくれればよかった。セックス以外の方法で子供をもうけてほしくはなかった。妊娠を継続させるための注射なんて要らなかった。タバコも酒も運動も仕事も我慢してほしくはなかった。

 母は私を騙した。そうして、騙したとすら思っていない。

 リビングから水の音がする。そういえば、ナスを切っていたのだった。閉め忘れた窓から、残飯の腐ったにおいが漂う。

 私が立ち上がるのと、胎児が私の腹を挑発的に蹴り上げるのは、ほとんど同時であった。