オンラインイベントで登壇するという生まれて初めての(そしてこれからもないであろう)経験をしたので、脳みそが混乱している。
冷静になるために日記を書く。
オンラインイベントの終盤、Zoomの機能で初めて気づいたものがあり、結構びっくりするなどした。
Zoomでの会合などに出るたび、何かしらの新発見があるような気がする・・・。
Zoomを使いこなしている人に憧れの気持ちが止まない。
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そういえば妊娠も継続している。
まあしかし、妊娠しているからといって、特に何か変化があるわけでもなく、淡々と仕事や育児や家事をする日々。
ただまあ、妊娠と出産と育児でどうなるか状況が読めない中、あんまりガツガツ営業をかけるというのも無責任かと思い、単発の仕事をこなす方針。
フリーランスはこういうとき、自分の都合にあわせられるので便利だね。
あと、ややストレスが溜まったりすると、即座にお腹が張るので、分かりやすくていいなと思うなどする。メンタルの体力ゲージみたいなもんだね。妊婦って便利(?)。
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産院に「3人目はさすがにもう産めないと思うので、避妊のために卵管を縛る手術をしたいのですが」と相談したところ、断られてしまった。
帝王切開の人なら、帝王切開のついでに手術ができるらしいんだけど、経膣だとわざわざお腹を開かねばならないので、私が産む予定の産院では受け付けていないらしい。
「旦那さん側にパイプカットをしてもらいましょう」と言われた。
まあそうか・・・。そうなのか・・・。
旦那さんのパイプカットという言葉で、なんとなく、クリスティーナ・スウィーニー=ビアードの『男たちを知らない女』みたいな疫病が発生したらどうしようかしら、と思ったりする。
夫が死ぬってなったとき、夫に「じゃあ子作りしよう、そしたらあなたの子供を産めるから」って思ったりしちゃうかもしれないね。
思わないか、育児どころじゃないか。
夫が死ぬって分かったらどうしようね。ものすごく困るんだろうな。
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このあいだ高村友也さんの『存在消滅』を読んでいたら(死が怖いなあみたいなことを語る本)、夫がやってきて、それはいい本だね、と言っていた。
夫は死が怖いので、こういうテーマが非常に切実なのだ。
育児や仕事をしていて、忙しくてそれどころではないから、死のこともふだんは忘れているけれども、やはり自分はそのうち死ぬのだ、と思うと、いやはやどうしたものか、と思う。
自分が死ぬのは、まあそういうこともあるか、と思うけれども、夫が死んだり、息子が死んだりすることを考えると、信じられないぐらい物悲しい気持ちになる。
夫も息子も、ちゃんと脳みそごとデータになって永遠に生きていてほしい。
定期的にバックアップも取っておきたいね。そしてデジタル空間で、30歳の私たちごっこ、40歳の私たちごっこ、50歳の私たちごっこをしようよ。
ああ、息子が5歳で、私と夫が30歳の今この瞬間、めちゃくちゃかけがえがないんだろうな。こんなにもかけがえがないと思っているのに、1秒の過ぎるスピードはずっと同じで嫌だなあ。ずっとこのままでも本当に構わないのに。
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先日、助産師さんとの面会(妊婦の不安の聞き取りとかをするやつ)で、ここぞとばかりに「上の子が可愛すぎて、どうしたらいいのか分からない」という話をしまくった。
息子のことを本当に愛おしいと思っているのだけれども、息子が可愛くって・・・という話を他人にしてはならない(話された側が反応に困るから)ということは理解しており、
助産師さんにひたすら「息子が可愛い・・・」と話せて、本当に嬉しかった。
助産師さんも、ひたすら「息子が可愛い」としか言わない妊婦の扱いには困ったかもしれないが、話を聞いてくれて本当に優しいね、と思った。
「可愛い」という感情の制御は難しい。
私は、街で見かけた可愛い洋服とか、きれいなイルミネーションとか、家族のふとした仕草とかについて、いちいち叫び出したくなるほど「可愛いね」と思ってしまい、これを他人に気取られないように自分の中でゆっくりと吸収していくのが、結構大変。
息子についてなどはもはや、毎日、幼稚園からお迎えをするたびに「こんなに可愛いの・・・?!」と膝から崩れ落ちそうな衝撃を受けている。
息子・・・。
息子本当に可愛いんだ、息子・・・。
許されるなら、仕事も全部放棄して、ずっと息子と遊んでいたい気持ちです。
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息子を可愛いなと思うとき、それはなんというのか、自分の中の何も考えていないところから急に「可愛いね」という言葉が出てきている。
ああこういう感覚は本当にいいなあ、と思う。あったかいお風呂でぷかぷか浮いてるような気分になる。
もちろん息子に、人間として「この人はすごいなあ」とか「生まれて5年しか経っていないのに、もうこんなことが分かるんだな」と感心したり、評価したりすることもよくあるんだけど、
息子が可愛いというのは、なんかそれとは全然別のところにある、奈落の底みたいなところから急にあぶくのように出てくる「可愛いね」であって、なんか、ああ、今、感情の根源に触れているな、という感じがする。
息子が、私のこういう、何も考えていない「可愛いね」を受け止めてくれて、本当によかった。
別に息子は、世間一般にいわれるような「可愛い」子ではないかもしれないが、何かこう、そういうのとは全然別のところで、可愛い。
存在そのものへの、強い愛着というのか、息子と私という関係性があって、その関係性、強い糸、みたいなものを指して、私は「ああ可愛い」と言っている気がする。
ここにいること、ここに関係性を構築することを許容してくれてありがとう、みたいな気持ち。
息子に可愛いといえて本当に嬉しい。
(息子は、可愛いじゃなくて、かっこいいと言ってくれ、と言うので、本当は可愛い、と言ってはならないのだが、なんか、かっこいいっていうのがパッと出てこず、いつも可愛いと言ってしまう、すまんの気持ち)