【育児・2000文字小説】あたしお母さんだから

 みさとちゃんママはすごく頭がいいんだろうと思う。ママになる前は青山で映画の会社に勤めてた、と言ってた。みさとちゃんはまだ生まれて半年で、なのにみさとちゃんママはいつも早く仕事に復帰したいと言っている。保育園にどうしても入れなかったから、慌てて育休延長して。参りましたよ。絶対2カ月で復帰しますって言ってたから、多分育休明けに私の仕事全部なくなってるんだろうなって。アスクルでボールペン発注するとかしか仕事がなかったらどうしようってすごい不安なんですよね。あはは。

 児童館によく来る人たちっていうのがいて、みさとちゃんママもそう、私もそう、あきらくんのお母さんもそう。あきらくんのお母さんはほとんど毎日来てるんじゃないかなと思う、行けば必ず見かける。みさとちゃんママは2週間に1回ぐらい遭遇するだけ。

 あきらくんのお母さんはみさとちゃんママが嫌いだ。母性がないんじゃないの、といつも言っている。そう思わない? とこっそり尋ねられたとき、私も「そうかもですね」とちょっと笑った。あきらくんのお母さんがこうやって声を潜めて人の悪口を言ってくれる瞬間がすごく好き。まるで高校生の頃に戻ったみたい。私は彼女にとって、内緒話をするような間柄に選ばれたんだ、と思う。

 まあ、ママ友っていうのはやっぱり子供の話をしてこそっていう感じがする。私は二人に会ったとき、とりあえずあきらくんとかみさとちゃんをどうやって褒めるかっていうのを一生懸命考えている。妊娠して出産したっていうだけしか共通点がない人たちが、同じような場所で和やかにやっていくためには、子供にまつわる会話だけをすることが重要だって思う。そうじゃないと私たちは、この世にはどうしても気が合わない人がいるっていうことを思い出してしまって、ただでさえ育児で疲弊しきっている心がさらに疲れ切ることになる。だから、みさとちゃんママがいつも仕事の話をすること、私のことを聞こうとすること、私のことを大井さんと名前で呼ぶことの一つ一つが、不安で、落ち着かなくて、なんだかたまらない。

 多分だけど、私もあきらくんのお母さんと同じように、みさとちゃんママが苦手なのだ。一緒にいると私が何者でもないのを思い出しそうになる。私は本当に親になるまで、何者でもない、本当に呼吸をしているだけの女、という感じだった。毎日毎日スーパーでレジを打つだけ。時給は900円で下がりも上がりもせず、このままずっとこうやって同じことをしているんだろうかといつも焦っていた。ママになれたことでようやく「社会の一員」になれた感じがした。社会に何も貢献していないという状況は同じなのに、道ゆくおばあちゃんからにこやかに話しかけられるようになった。児童館だの授乳室だの、街を歩いていて、以前は入れなかった場所に入れるようになった。その上、歓迎されるようになった。すごく嬉しかった。

 私は分かっている。ママになるっていうのはそんなに大したことじゃない。単にセックスしてたら彼氏が――今はパパが――コンドームを付けてくれなかったっていうだけだ。

 みさとちゃんママはそういうのじゃないんだろうなと思う。映画の会社に入ってキャリアウーマンやっていくなんてよほど努力してきたんだろうって思う。すごく羨ましくて、やるせなくなる。私は、早く仕事に戻りたいなんて全然思わない。なんの能力もない私を歓迎してくれる職場なんて、世界のどこにもないから。ない場所には、帰れない。

 大井さん、化粧品どこのやつ使ってらっしゃるんですか。その日みさとちゃんママはそういう言葉から会話をスタートさせた。え。なんかドラッグストアで安いやつです。キャンメとか。そうなんだ、キャンメ? 眉毛も? ああー、眉毛はなんかダイソーです。ダイソー? ええ、すごい。すっごい眉毛描くのうまいですよね。

 眉毛描いてもどうせ見せる人いないから虚しいですよね、あはは、と私は笑う。褒められると居心地が悪いから、私はみさとちゃんに目をやる。ってかみさとちゃんほっぺたぷくぷく。可愛いねえ。

 みさとちゃんママはそれには答えなかった。「なんか、私、眉毛描くの本当に下手なんですよね。働いてた頃も上司に眉毛を何とかしなさいって怒られるの。眉毛が変な人って目立つからって。で、アナスタシアとか行くんですけど、」「アナスタシアってなんですか?」「ああ、眉毛整える専門のサロンみたいなとこですよ。行った直後は書き方とかも覚えてるからいいんだけど、1週間くらいするとめんどくさくなっちゃって」

 みさとちゃんママって、働くのすっごい好きだったんですね、と私は言う。みさとちゃんママは私の顔をじっと見ると、「あ、ごめんね、」と言った。何に対してかけられた言葉だろうか、と考えているうちに彼女は早口で喋り出す。なんていうか、私、働いてお金もらってないと、なんか何する権利もないみたいな気がするんですよね。生まれて、育休に入ったら、だから自分に何の価値も無くなっちゃった気がして、それでなるべく完璧にこの子の母親でないといけないってすごい思ったんです。でも、みさとが新生児の頃、泣き止まなさすぎて本当にイライラして、ベッドに投げちゃったことあるんですよね。あはは。最悪ですよね。それで、私は虐待しちゃうタイプの親だなって思って、できるだけ育児は楽しないとなって思ったんですよ。それで働きたいし、働いてるときのこと思い出すのもすごい好きなんですよね。なんか。すみません。

 みさとちゃんママはやっぱり母性がないんだと思う。私だって新生児のころはしんどかったけど、暴力だけは絶対に我慢しないといけないと思っていた。「そうなんですね」やっぱり私はこういう会話が嫌いだ。嫌いで、苦手で、疲れる。