【2000文字小説】どこにいても同じいつでも大丈夫じゃないの私たちはたぶん

 松戸の駅で降りようとしたときに浩一さんがあ、と声をあげる。なに、と言おうとして彼が何を言おうとしていたのか分かった。

 その人は臭かった。浩一さんの手のひらよりも少し大きいぐらいの段ボールを持っていた。段ボールには「お金をください」と書いてある。たぶんホームレスの人だった。ベンチに座っている人たちに順番にそのメッセージを見せていく。全員が目を下にやり、彼を無視した。私も無視した、浩一さんも無視した。

 改札を出てアトレを見ながら、ユザワヤ行きたいです、と言う。「何それ?」「手芸用品店ですよ」「なるほど。どこにある?」「カラ鉄わかります? あのへんなんですけど」「じゃあ駅出て右か」「うん」ユザワヤで買いたいものなんてなかったけど、アトレに入る気分じゃなかった。適当な500円くらいの生地を買ってお茶を濁そう、と思う。

 浩一さんが私の指に彼の指をからめる。コンコースから見える景色は一瞬八王子駅にも立川の駅にも見えて、一瞬不安になる。ここはもしかしてトシくんとよく来た駅なんだっけ。いやそんなことはない、それは立川だ、大丈夫、大丈夫。

 浩一さんとは土曜日のたびにしか会わない。綾香は平日彼に会わないのを「危険じゃない?」と言った。結婚する前に同棲しないと絶対ダメ、と彼女は断言する。そんなの金曜日まで働いて土曜日に彼女と会うのなんて楽しいに決まってるじゃん、そりゃご機嫌だよ、そうじゃなくて余裕ない平日にどれくらい普通かってのが重要だって。私は、でも、綾香は前の彼氏に浮気されたじゃん、と言いたい。

 綾香はきっと軽いつもりで言ったんだと思う、でもそれ以来私は彼が少しでも不機嫌なそぶりを見せると「コンディションが絶対にいいはずの土曜日に不機嫌になるなんて」とガッカリしてしまう。あんなことを言われなければ彼にガッカリすることもなかったのに。異性に求める条件、みたいなものを人から教わるごとに、いくら気にしないようにしようと思っても、どんどん目の前の男をジャッジするようになってしまう。年収は。性格は。仕事は手に職なのか。親との仲の良さはどうか。レストランで店員さんにどんな態度か。好き嫌いはあるか。家事はできるのか。元カノといまも連絡をとっているか。浮気のボーダーラインはどこからか。LINEの返信はどれくらいしてくれるのか。

 浩一さんはレストランの店員さんに偉そうな態度をとる。そういうところを私は「許してあげている」。なにしろ浩一さんとは週に1度しか会えなくて、そういうときにたかが店員さんの態度が悪かったことぐらいで雰囲気を悪くしたくない。たぶん、きっと私だって浩一さんに許されているのだろうし。

 松戸のユザワヤは吉祥寺にあるユザワヤより商品が安く売られていそうだと思う、でもそんなことは全然ない。入口付近に安くて薄っぺらい生地がワッと並んでいて、可愛い、けど、何に使えばいいのか分からない。友の会カードの紹介ポスターがレジ前に貼られている。全部同じ。浩一さんは「俺の知らない世界があるんだなあって思うよ」と呟いた。

 浩一さんはまあ、ユザワヤとか来ませんよね。そうねえー。小学校のときに雑巾つくったのが一番高度な手芸体験だわ。あはは。家庭科のときにつくるやつ。そうそう。「浩一さんが針持ってるのとか、想像すると可愛い」浩一さんはその言葉を聞くと目をすういと細めた。「じゃあ今度雑巾つくってあげようか」あはは。

 ユザワヤではやっぱり540円のカットクロスを買った。黄色をバックに、色とりどりのフルーツが描かれた布地。「なんか作るの」と浩一さんに聞かれ、「いやあなんか生地って見ると買いたくなっちゃう」と答える。浩一さんがなんとなくつまらなそうな顔をしたのがわかった。

 アトレにタリーズあるの知ってた、と浩一さんが言う。え、スタバじゃなくてですか。うん。なんか5階だかにあんのよ、いつもわりと空いてるから、たぶん座れると思う。行こうよ。歩き出した浩一さんの背中に私はごめんねと声を当てる。私がカラオケ苦手だから、座れる場所の選択肢が少なくなるっていうか。「そういうのじゃないよー」と浩一さんは私を振り返った。

「なんでああいう状態になっちゃうまで自分の人生諦めちゃうかなあ」と浩一さんが言ったとき、一瞬なんのことか分からなくて、それから3秒くらいしてさっきのホームレスみたいなおじさんのことを言っているんだと気づいた。自分の人生諦めちゃう。私が彼の言葉を繰り返すと、浩一さんはウン、と言った。「今ってさ、どこででもバイトとか募集してるじゃん。労働人口は減ってきててさ、やろうと思えばいくらでも仕事なんて見つかると思うんだよ。それをああやって人に甘えて生きてるっていうのがさ、なんかね。人生諦めてるなっていうか」

 タリーズは確かに空いていた。どんなメニューがあるのか分からなくて焦って注文した紅茶は、寒い日に家で飲む日東紅茶と変わらない味がする。「そうかもですねえ」と笑って、それから、浩一さんと結婚できるだろうかと考えた。

 浩一さんは私が無職になったら「人生を諦めるな」と怒るだろうか。職場の上司がひどい人で、私がうつ病になったとしたら、なんて言うんだろうか。もしも妊娠したとして、仕事を辞めたいと言ったら許してくれるだろうか。

 浩一さんは「魚をあげるより、魚の釣り方を教えるってことが大事なんだよ」と口の中だけで囁いて、コーヒーをすすった。浩一さん、浩一さんは、と私は思う。

 浩一さんは、あなた自身が無職になっても、私に許しを乞うことができるの。

 紅茶しぶくなっちゃった、と私が言う。ミルク入れなよ、と浩一さんが笑った。