【2000文字小説】不幸じゃないコンプレックス

 あんた本当に何がしたいのとお母さんは泣いていた。病院のベッドは隣に死にかけのおじいさんがいて、夜中にしょっちゅうナースコールを押す。お医者さんが「学校のこととかは今は考えないで、ゆっくりおやすみしましょう」と言って、私は頷いた。

 学校行かなくてよくなった、よかった、嬉しかった。

 そんなにひどい感じでいじめられてたわけじゃなかった。成田さんが私のことを嫌いで、成田さんのグループはギャルグループだったというだけ。体育の授業で一緒の班になるたび舌打ちされて、「先生わたし藤さんと一緒の班嫌なんですけど絶対負けるから」と大声で言われた、そういうことの連続だけ、たかがそれだけだった。

 自殺するほどの絶望に値するいじめっていうのはもっと、トイレで水をかけられるとか、机を窓から捨てられるとか、オナニーを強要されるとか、そういうやつだ。わたしはそこまで強く嫌われることはできなかった。それどころかわたしには友達だっていた。森木さんも鹿野さんも、いつも何食わぬ顔で一緒にお弁当を食べてくれた。

 わたしの母親が中国人だから嫌われる、んだったらよかった。でもうちのクラスには金くんもいたし、ムンヒちゃんもいた。ムンヒちゃんは文姫ちゃんと書く。すごく可愛くて、優しい子だ。「名前に姫ってつくのめちゃくちゃ可愛い、」と成田さんが一度ムンヒちゃんに話しかけているのを見たことがある。まあわたし性格悪いし、そうなるよな、と思った。わたしのあだ名はツインテールババア。成田さんがそのあだ名を考えて以来、成田さんグループのみんながわたしのことをそう呼んでいるのを知っている。

 漫画を読んでいてリストカットの存在を知った。学校の最寄り駅ちかくにある文房具屋さんでカッターを買った。透明なそのカッターは家にあるどんな刃物よりもするどい切れ味で驚いた。たちまちのうちに血があふれた。こんなに痛いことなのによくできたな自分は、と妙な達成感があった。わたしはちゃんとできる。わたしはちゃんとできる子、いざとなったら死ねる子。

 傷跡は3日もするとかさぶたになった。かゆくてかゆくて仕方なかった。リストカットの傷跡がかゆいっていうのはなんだかダサくて嫌だった。

 お母さんは怒っている、毎日見舞いにきてはわたしに「自分が悪い子だったと言いなさい」と泣く。わたしはそういうとき心をスーッと静かにする。昔から言いたくないことを言うときはずっと同じ方法。言わなければお母さんはもっと怒るし、これが一番よい方法だ。「わたしが悪い子でした」。ここにわたしが存在しなければもっといいのに。

 明日が新学期だというその日の晩、どうしても学校に行きたくなくなってしまった。学校に行くくらいなら死んでもいいかもしれないと思ったのがその日のお昼で、夕方になる頃にはすっかり自殺をすることを決めていた。お父さんの吸っているマルボロを2本とってきて、丸飲みする。1本目はうまく飲めたのに、2本目はオエッとなってしまって全然うまく飲み込めない。そうこうしているうちにものすごい量の汗が出てきて、気持ち悪くなって吐き気が止まらなくなった。スマホで119番にかける、きゅうきゅうしゃ、だから9がつくほう。そうだよね。指はぶるぶる震える。えづきが止まらないまま住所を口にする、いつの間にか電話が切れている。早く救急車が来てほしい。お母さんが「あんた何してんの」と叫ぶのが聞こえた。

 お母さんはパートを辞めてしまった。わたしが退院してからは、最初の頃はほとんどずっと一緒にいた。わたしのことをずっと「馬鹿な子だよ」と言っていた。「こんなに幸せなのに何が足りないの。」それから、30分に1度はわたしのことを見にくるようになって、1時間に1回になって、食事のときにだけ呼んでくるようになった。

 ツイッターのアプリを開いて何度もスワイプする。タイムラインは盛況だった。「ひまー」と呟き、5秒待ってからスワイプ。四つのいいねが付いていることを確認する。はあ、と息をついた。「#いいねした人に単純に思ってること1つ言う ひまだからやります」、送信する。通知がくる、通知がくる、通知がくる、通知がくる、通知がくる。ステラからもいいねが来ていて、嬉しくなる。「@stella182697332 大好き」

 救急車に乗っていた自分を一瞬しか覚えていない。気づいたら緊急処置室みたいなところで裸になっていた。オエ、と吐いたものが真っ黒で驚く。体にその黒い何かがこびりついた。えづきは止まらなかった。わたし死にますか、と看護師さんに聞くと看護師さんは「大丈夫ですよ」と微笑んだ。「死にたくないです」と言う。死にたくない、死にたくない。

 水が飲みたいとどんなに訴えても聞き入れてもらえなかった。うがいだけならいいですよ、と言われて、こっそり一口水を飲んだ。直後からものすごい吐き気がし始めて止まらなくなった。苦しい、苦しい、苦しい、死ぬんじゃないの。ナースコールを押す、押しながら、こんなにちゃんとした自殺未遂してる16歳なかなかいないんじゃないのかなと思った。お医者さんみたいな人が見回りをしていて、わたしのそばを通り過ぎてゆく。ナースコールを押したのに。

 ステラから返信がくる。「わたしも大好きだよ」

 学校はいつか行かなくちゃいけないのかな、そういうことを時々考える。もしも戻るとしたら一学年とか年上ってことになるし、そんなの絶対バレるし嫌だな。寝返りをうつ。

 やっぱり死ねていればよかったんだろうなと思う。でも死にたくないなとも思う。手首のかさぶたはもうとっくに治っていて、そろそろ新しい傷をつけなくちゃと不意に思いついた。