追悼はインスタ映えしない

 でもそれでも私とミクノがこれから半年の間に和解できるとは、私は思わなかった。死が何かを解決してくれるということはない。あっとうてきなセンチメンタリズムを味方につけて滂沱の涙とともに謝罪や感謝を述べてはいけない。
 そういうことを考えているうちにミクノは死んだ。死んだという言葉はぜんぜん現実と違うと思った。死はそんなふうに私たちをドキッとさせるようなものではなかった。もっとスイートなものを予想していた。違う。それはある日突然にやってくる喪失だった。
 死はちっとも映像的ではなかった。それは単なる空白だった。「もうここに、この世界に、私が物理的にたどりつくことが可能などんな場所にもミクノが存在しないということ」、私は考える。もう一度考える。「ミクノが世界のどこにも存在しなくなってしまったということ」。私はそうやっていなくなってしまったミクノと一緒に、自分もどこかに存在しなくなってしまえればよかったと考える。でも「私が存在しなくなったからといって、私がミクノと同じように存在できるようになるわけじゃないからな」。ミクノは存在することをやめたのだ。
 涙の流し方は分からないのだがとにかく出るものは出る。インスタグラムにアップできそうな泣き方であればミクノの死が報われるだろうか。あなたの死がとてもドラマチックでよかったでしょう。どうしてこんな風にくだらないことばかり考えるのか。
 ミクノ自身はこれ以上生きられないことをどういうふうに考えたのだろうか。これ以上生きられないことが苦痛だっただろうかそれとも死の目前にはそんなことは考えられないのだろうか。私は自分が死ぬのはとても嫌だと考える、死を前にしてこういう自分のためらいや嘆きが全てどうでもよいものとなってしまうであろうことがとても悲しい。私が生きていることは一体なんなのだろう。私という生き物は大きな大きな目で見ればまるで取るに足らない生き物なのに、どうして私は、私だけは、私のそういう卑小さを正しく評価できずに、私がこの世界から失われてしまうことをこれほど恐れるのだろう。ミクノはどうだっただろう。
 例えば洗濯物を干しているとき、私はミクノにどうしても会いたい、と感じる。それはいきなりの発作のように訪れる。私はわけの分からない衝動によって食道がぱんぱんになるのを感じながら「ミクノに今会いたい」と吐き捨てる。でもミクノに会うことはできない。死はそういうふうに、暴力的な空白として私を襲う。インスタグラムにアップのできない無言の感情たち、は、ミクノを追悼する方法として正しいのか。私は上下の揃っていない下着を干し終える。