【2000文字小説】今は頑張らないで、休むことだけ考えて、(未来にたくさん頑張って)

マンマローザを食べようと思ってたんだった。昨日の夜。起き上がって部屋のドアを開ける、立ち上がった途端におしっこがしたくなってトイレ。便座に隠毛が付いていて、取ろうと思ったけど汚いからやめて、そのままおしっこをする。冷蔵庫を覗くとマンマローザはどこにもなかった。

「ねえ」とお母さんに声をかけたのだけどお母さんは掃除機をかけているから聞こえない。

「ねえ」ともう一度大きな声をあげると、案外不機嫌そうな声になってしまった。「ええ、びっくりしたおはよう美咲ちゃん」「いやマンマローザないんだけど」「え?」「マンマローザ」

ああーお父さんが昨日の夜食べてたよ。とお母さんはこともなげにいう。なんでよあれ私のだったでしょ?! うーんでも美咲ちゃんもういっぱい食べてたし、お父さんの出張土産なんだからねえ。

はあ? 声に出す、キレかけの声になるように調節する。クソじゃん。

冷蔵庫はお母さんが3年前に「フレンチドアのやつ」とわがままを言って買ったやつで、お母さんのバカさをそのまま象徴してると思う。お父さんが「10万近くしたんだぞ、たかが冷蔵庫に」と何度も愚痴を言っているのを聞いた。私も冷蔵庫に10万円もかけるなんてバカだと思う。冷蔵庫なんてビールさえ冷やせればあとは何も期待してない、フランス料理作る予定もないのに主婦が気取っちゃってさ。その通り。ものの値段も分からないからお母さんはバカで社会人もまともにできなくてパートをしている。

っていうかあれお土産なんでしょ、だったらお父さんが食べる権利ないでしょ。お土産なんだからお父さんが食べる権利ないのに。

ああ最悪だ朝から最悪だ。本当なら食べられるはずだったマンマローザ、マンマローザでいっぱいになるはずだった私の口、ひかひかになって奥歯だけが濡れている。気持ち悪い気持ち悪い、

「もういいご飯は?!」「お味噌汁つくってたんだけどもうないの」「なんでよ」「きょう暑いから、悪くなっちゃうからね」「だからなんでまた作んないのって聞いてんの」「ご飯、冷やご飯しかないけど」「冷やご飯私嫌いだって何回言ったら分かんの?!」

お母さんは「分かったからね」と言いながらやっぱり冷やご飯を出してレンジに入れていて、私の話を聞いていない。腹がたつのでリビングの机に置いてあった新聞をばさっと床に落とした。お父さんが読み捨てていった新聞は本当にいかにも「読まれました」という感じ、角も揃っていなくて新品っぽくなくてイライラする。毎日新品の状態が届くのに届いて数時間でこんなにグチャグチャにしてもっと綺麗に読めないのかよ死ねよ。

「ねえ」と声を出してもお母さんは答えない。耳が遠い。「何やってんの」大声を出すとお母さんは「チャーハンつくってるよ」と間延びした声で言った。ふーん。

チャーハンなら冷やご飯でも食べられるから、まあいいか、と思って椅子に座った。新聞を早く片付けてほしい。私はお腹が空いてるのになんでモタモタするんだろう。

転職してからもうすぐ3ヶ月目というある日の帰り道、私はいきなり死にたくなった。それでお母さんにLINEで「もう死にたい」とだけ送って、そのまま漫画喫茶に入った。ああコンビニでパンツ買っとけばよかったかな、と思うけど、まあいいか、と思い直す。個室の目の前の棚に凪のお暇が置いてあって、ちょっと前まで広告でよく見たなと思って3巻まで読んだ。

主人公が昔の少女漫画みたいな口をして喋っているのがイライラする。独特な自分を可愛いと思ってますみたいな感じでムカつく。結局ハーレム系の少女漫画だし。そもそも全然、暇そうじゃないじゃん。タイトル詐欺かよ。

3巻を読み終わったときスマホを見たら、お母さんからLINEで着信がいっぱい入っていて、うざいなと思って機内モードにする。4巻目が誰かに読まれている最中で、それで仕方なくハイキューを手に取った。

どれくらい家に帰らなかったら仕事を辞めてもいいんだろう。お母さんが本気で心配したら辞めてもいいってことにならないだろうか。それともやっぱり電通の人みたいに自殺しないといけないんだろうか。

だる。しんど。もう本当、生きてたくもないし死にたくもない。最悪。

隣のブースからマウスをクリックする音が聞こえてきて、漫画喫茶でまでネットするなんて変だしうるさいし死ねと思う。あと10分経ってもまだカチカチやってたら壁殴ろう、と思っていたところで、青城のみんなが烏野に「もっと頑張れ」と言い出して、それできょうの城田さんの言葉を思い出してしまう、ページをめくる手が止まる。

「もっと頑張れよ」と城田さんは言った。はあ、と私は答える。お昼休みにトイレで仮眠を取ろうとしたら、そのまま15時まで眠ってしまったのだ。14時からお客さんに会いに行く予定だったのが全部ぐちゃぐちゃになって、結局城田さんがお客さんに電話をかけたり、全部うまくやってくれた。お客さんに会いにいくの嫌だったから、ちょっとホッとしてしまう自分がいた。

昨日そんな残ってた? と聞かれて、「何がですか」と聞くと、「いや残業してたかってこと」と言われる。じゃあ残業って言えばいいのに。「あ、いや、昨日は定時でしたけど?」「お前さあ」

同期の村山さんがこっちをチラッと見て、ちょっとだけ笑ったように見えた。ああ、何これ。私、笑われてんのか。バカにされてんのか。

そう理解した瞬間、今までの嫌だったこととかが全部思い出されて、村山さんのことを一気に嫌いになった。なんで? 村山さんのことだけは信じてたのに。

私は精一杯やっていて、でも、毎日毎日仕事で、ストレスで鬱っぽくなっていて、だから自分の時間が欲しくて、毎晩スマホでまとめサイトを見ながらだらだらしないとやっていけなかった。

そしたら絶対に夜寝るのは3時近くになるし、それでも頑張って朝7時に起きていたのに。毎日毎日、しんどくて、怒られて、できないことばっかりで、ツイッターでは「海外はもっと自由に労働ができる」とかっていっぱい流れてきて、あーなんで私は日本で産まれちゃったんだろうって毎日最悪な気分だった。

死にたい。もう色々から逃げたい。でも、死にたくない。なんでこうなっちゃったんだろう。つまんなくなって目を閉じたら意識が途切れた。

翌朝目が覚めたら朝の12時で、お会計は2700円だった。金曜日は料金が高くなるというのは分かるけど、高すぎる。絶対ぼったくりだと思うんだけど、店員さんを困らせるのもよくないから、仕方なく言われるがままに払った。

家のドアを開けるとお母さんが飛び出してきて、「美咲ちゃん、よかった」と言う。何がだっけ。リビングの椅子に座って、お母さんが淹れてくれたココアを飲んでいたら、お母さんがテレビを見ながらポツリと呟いた。

「美咲ちゃんさ、会社つらいなら、辞めちゃってもいいんだからね」

あ。

そうか。そうだった。そう。だった。

私。会社を辞めたかったんだ、死にたいんじゃなくて。

うん、と答えると、涙がぼろっと出てくるのが分かった。ああ、私、泣けるんだな。私でも。私なんかでも。涙がどんどんどんどん出てきて「うん」ともう一度言う。やっぱりお母さんしか、私のことを分かってくれる人はいない。

今はゆっくり休んで、また落ち着いてから色々考えようね。お母さんがそう言って、でも、私は無言で首を振る。お母さんはテレビのほうを向いているから、それには気づかない。やだ、と今度は小さな声で言う。お母さんには聞こえない。

なんで、なんでそんなこと言うの。ねえ。お母さん。やだよ。

やだよお。

もうずっとお休みがいいよ。私、普通の人間みたいに生きていけないんだもん。お母さん私を産んだんだからちゃんと面倒見てよ私が死ぬまで。もう頑張りたくないんだよ。なんで分かんないの? 色々考えるって何? もうやだよ、何も頑張りたくない、朝起きるのもいやだし夜寝ないといけないのもいやだし影でこそこそ笑われるのも嫌なんだよお母さんは働いたことないから分かんないだろうけど働くってすごい大変なんだよ。もう色々疲れたよ。なんで分かってくれないの? なんで?

私の喉の奥で言葉がぐるぐる渦を巻いて、私はそれらすべてを飲み込んで、だらだらと溢れる涙を流れるままにする。「うん」、と言うと、お母さんが「うん」と返してくれた。「もう死にたい」と言うと、お母さんはちょっと黙って、それから私のほうを少し見て、「うん」と言い、またテレビに視線を戻した。