里子の親まで愛せるかどうか問題

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昨日は空いた時間で、赤ちゃんポストについての書籍を読む。

里親/里子については勉強を始めたばかりなので、かなり極端な意見を書いている自覚がある。極端な意見を読むのが苦手な人は多いと思うので、読まないほうがいいかもしれない。自分のために書いている。

 

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本を読んでとにかく思ったのは、赤ちゃんポストに預ける人たちは、結構、想像を絶するような理由でポストを利用しているケースもあること。

たとえば、「教員同士がダブル不倫して妊娠してしまった。職員会議で、赤ちゃんポストに預けることが決定したので、預けた」とか。

あと、ほぼ新生児みたいな子供をポストに預けて、子供には里親も見つかり安定した幸せな暮らしをしているのに、何年かして、「返して欲しい」と言い出すとか。

(日本の制度では、こういう場合、実親に基本は返されるしかないらしい。説得して翻意してもらうしか方法はないと。私は、赤ちゃんポストに預けて何週間か経過したら、もう親権は剥奪でいいと思うのだけど)

 

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ちなみに、私は、赤ちゃんポストって10代の利用が多いのだと思っていたのだが、ポストの利用は20代が一番多いらしい。30代の利用もある。うーん。

 

あとは、「病院のドアの開け方が分からなかったので、赤ちゃんをドアの外に置いて帰ろうとした」みたいな、母親の側も知的障害があるのではないか(障害がある/ないのボーダーライン上なんだろうけど)というケースもある。『ケーキの切れない非行少年たち』を思い出す。

 

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里親に出す、という選択を取ることは、結構、なんていうのかな。その選択肢が出てくる時点で、かなり、うーん。「特殊な状況に置かれた人」なのではないかと思う。

(産んでも育てられない、という状況に置かれる人が"普通"の社会はあんまり良くないと思う、という願望も込みで。なぜなら産むのはdeadly体力のいる仕事で、他人に育ててもらうためだけにあんな過酷な仕事をするのは本当に苦しいから。子供が可愛い♡とかの「報酬」がなければとてもやっていられない)

 

私の人生で、「妊娠した、中絶もできなかった、産んだ、でも結局育てられないと思ったので人に育ててもらうことにした」という選択をした人に会ったことが一度もない。

なんていうのか。理屈の上では、「同情するべき人」なんだろうし、きっと彼らと同じ状況になったら、私も彼らと同じことをするに違いない。

でも、さはさりとて、子供を里子に出す人間は、自分と全く異なる生き物、自分が理解できない生き物なんだろうな、という気持ちが拭えない。「どうしてそんなことをするの」「あなたのような愚かな人間を見ているとイライラする」。そういうことを言ってしまいそうな自分もいる。嫌だなあ。

 

問題は、そういう親から生まれた子供を育てるということだ。

「子供の能力は、遺伝子が半分、育った環境が半分」という言葉があるけど、50パーセントもの割合を占める「クソみたいな遺伝子」じゃん、と思ってしまうときがあるんじゃないのか。じゃあ私たちの遺伝子がいい感じなのかよ、とも思うけど。

50パーセントの遺伝子とか関係ない、と言えるほど、素晴らしい環境を提供できるだろうかって言われると、それも分からないし。

 

もし将来、小学校、中学校と通い始めて、うちの息子(実子)と、頭の良さとかに大きな差が出たらどうしよう。そのとき私は「ああ、この子はアホたちの遺伝子を持ってるから」とか、そういうことを思ってしまったりしないんだろうか。

(逆に、うちの子がアホで、里子がめちゃくちゃ賢かったとき、自分たちの遺伝子を正当化するために里子の賢さを伸ばしてやれなかったり、そういうこともあるかもしれない)

そういうことは絶対に思ってはいけないんだけど、でも、チラッとそういうことが頭をかすめたりしないと、絶対に言えるんだろうか。顔にも態度にも一切出さずにいられるだろうか。

分からない。

 

私は里子を、「実子みたいに」愛せるんだろうか。

 

子供は子供できっと可愛いに違いない。親がどうとか関係なく。でもたとえば、息子が絶対にしないような、異常なぐらいの癇癪を起こしたらどうしようか。泣き喚いているのを見て、「ああ、悪い遺伝子を持っているから、感情のコントロールができないのかな」と思ったりしないんだろうか。

(私はいまだに感情のコントロールが苦手だから、子供が癇癪を起こしたって、人のこと言えないだろ、と思うのは、もちろん本当に理屈で言えばそうなんだけど、そのときはきっと、頭に血が上って、イライラしているだろうから、正しい理屈を自分の中に持ってこられるかどうか分からない)

 

私は里子に100パーセントの愛情を注げるんだろうか。

 

たとえば夫と冷戦をしていた頃や、義理の実家の人間が鬱陶しかった頃、一瞬だけ、息子が可愛く思えなくなった。一瞬だけだけどね。「あの愚かな男と、その一族の血が入ってる子供なんだ」と思った。息子は私よりもむしろ夫に顔が似ているんだよなあ、とかね。

脳裏によぎって、すぐ消えたけど。なぜなら息子は可愛かったから。それに、私の血も入っていたから。このグリグリお目目と小さい輪郭は私のもの、だから愛せる。とか思ったんだ。

ああ〜。じゃあ里子なんて一滴も私の血とか入ってませんが?!

私はそういうことを考える人間だ。里親になれるんだろうか? 無理なのかな。優しさが足りないかもしれない。

 

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それから、これは別の話なんだけど、里子って、いつか里親のもとに帰ってしまうかもしれない、里親が急に「施設で育ててください」と言うかもしれない。

「本当の子供といっていいか分からない」という状況で、100パーセントの愛情を注げるのかな。いつかいなくなってしまうかもしれないんだから、私の人生まるごとはあげられないよ、と思ったりしないんだろうか。

 

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本当はもしかしたら、里親になるっていうのは、もっと高齢になってからするものなのかもしれない。自分の育児がひと段落してからするものなのかも。もしくは、やっぱり、子供のいない若い夫婦がするのが正しいことなのかもしれない。年齢の小さい実子がいる若い夫婦は、あんまり向いていないのかも。

 

なぜなら、里親って、「二人目が欲しいから」とか「賑やかな家族が欲しいから」とか、そういう理由でなるものじゃないから。

 

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でも、子供を産む前にも、こうやって色々悩んだんだよな。それでも結局「エイヤ」で産んでみて、「結局理屈よりも先に"可愛い"がきちゃうよな」ってなってる。

産むことは究極的な暴力なんだよな、とか、まあそういうの、色々あるけど、やっぱり、息子が可愛い以上のことは何もなくて、息子が大好きで、よかったな、嬉しいな、と思う。

育児ってなんか、理屈を飛び越えてしまう、脊髄反射の「可愛い」で成り立っている部分がある。

 

でもね、しかしね、脊髄反射の「可愛い」ができるかどうかは、育ててみるまで分からないんだよな。子供を使ってトライ(できなかったら育児放棄)なんてできないからなあ、やっぱり。その「エイヤ」は、素晴らしいことでもなんでもない、やっぱり単なる、命を使ったロシアンルーレットなんだよ。いけるいけるって見切り発車でやってみて、もし「失敗」しても、それで私は損しないから。楽しいスリルだ。でも子供使ってそんなことしちゃいけないから。

 

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夫と二人で、「とにかくジムには行こうね」と話した。コロナでただでさえ体力落ちてるし、私たちもう若くないし。体力makes優しさ。

あとはお金の使い方をキチッとすることも大事だ。こんななんか、ヘニャヘニャした気ままな使い方をしていてはいけない。

そして、里親についての情報収集をし続けること、考え続けること、人にいっぱい質問をすることだな。

 

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色々大変だけど、それでもやっぱり、可愛い赤ちゃんの一生を、ちょっとでも楽しくしてあげられたら、本当に嬉しいよ、と思う。ようやく会えたね、会えて嬉しいよ、と思いたい。なぜなら、子供は可愛いから。それは理屈じゃなくて、やっぱりもう脊髄反射としか言いようがないんだけど。