【ニセン文字小説】既婚者は不幸になっちゃいけない法律でもあるわけ、そんなんだから既婚になれないんじゃん、嘘ごめん

彰が「きょうこれから戸澤さんと飲みに行くんだけど」と言い、あっそ、と私は返す。夕食のことも昼食のことも私のきょうこの後の予定についても話さない。小さいけれど復讐だ。私は彰に心底呆れていた。

今さらだった。全部今さらだ。そういうことは結婚前に私に言っておかないといけなかった。彰に合わせて武蔵小金井まで引っ越したのに。仕事も見つけ直しになったのに。土日も毎週のように飲みに行くものだから夫婦の時間はほとんどない、セックスは月に2回。平均よりもずっと少ない。結婚してまだ1年も経っていないのに最悪だ。

最悪だ、と思った瞬間に目の奥から分厚い涙が出てきそうになる、可愛い女みたいに見えたら嫌だ、嫌だから、「あああ結婚相手間違えたな」彰に聞こえるようにそう言う。涙はすっと引っ込んで、サラサラした鼻水だけが遅れて流れ出る。彰は何も言わずに出ていった。

怒りのぶつけどころがなくなって私は足で床を踏みつける。階下の住民がどう思ったって知るか、この家の契約者は彰なのだ。不動産屋に細かく要望を伝えて、家賃の値切りまでしたのは私なのに、不動産屋は終始、私ではなくて、彰を見ながら話していた。帰り道に皮肉っぽく「私、超内助の功っぽかったね」と言うと、「値切りとか恥ずかしいから今度からやんないでね」とだけ彼は言った。

LINEの着信音がする、彰からかと思って急いでスマホに目をやる。ミナだ。会う前にちょっと一人で買い物してるから、駅ついたら連絡して! はい、了解、と返事を打っている間に、ミナから次のメッセージ。武蔵小金井からだと中央線で来られるって乗り換え検索で調べたら出てきたけど、東口に集合で大丈夫?

大丈夫! ありがとう! 久しぶりすぎて超楽しみ。笑っている絵文字。送信。そのまま中断されていた化粧を再開する。眉毛も描いていない。ファンデだけが終わった顔色の悪い私がこちらを見つめてくる。

ブサイクだな、と思った瞬間、また喉元に嗚咽のような怒りがこみ上げる。いや、途中で中断されたら誰だってブサイクでしょ。そんなん彰のせいじゃん、あああ思い出しちゃった、最悪だ。怒りに任せて、いつもよりラメがぎっしりのシャドウをまぶたに乗せる。血が飛び散るみたいにゴールドのラメが飛びちる。可愛い、可愛い、可愛い。ピアスはこの間買った丸い天然石のあれにしよう。

女友達だから、いつもより濃い色のメイクができる。うっかり衝動買いしてしまったディオールのルージュブラッシュを使ってしまおう。ブラウンは私の肌だと派手になりすぎるような気がして、結局まだ一度もつけられていなかった。やっぱり濃いかな。いいか。別に会うのミナだし。

家を出る直前LINEに目をやる、彰からはなんのメッセージも入っていない。「あっそ、」と口に出す。クソ男。飲み会で潰れて失禁したらいい。

===

ミナはまた新しい男と付き合うか悩んでいた。15のときからずっと同じだ。どう思う? 34なんだけど。なんか大工さん? でも建物建てたりはしないって言ってた。管理みたいな? よく分かんないよね。年収でもそこそこなんだよ、450万ぐらいって言ってて。全然いいなーとか思ったんだけど。よくない? 34でそれぐらいってかなりいいよね? 普通にさ私も働き続けるからさ、うっかり世帯年収1000万とかいけるかも分かんないなとか思って。いいよね。でもなんか最初のデートでさとりあえず映画だったんだけど、まあそれはいいんだけど、なんか田淵さんが、いやその人が、田淵さんが観たいって最初に言ったのが、なんか全然知らない『クロール』っていうサスペンス映画でさ、なにそれ? みたいな。しかもグロい系なの。怖くない? まあ結局しかもそれ朝しか上映やってなくて、普通にマレフィセント観たんだけど。どう思う?

え。待って、映画のチケット予約とかしてくれてなかったってこと? 私が問うと、ミナは小さく眉をひそめる。え、まあなんかそれはなんか二人ともいいかなって思ってた。「えーそうなんだ」、私は言う。彰なら絶対に予約を取るだろうな、とぼんやり思う。「え、むしろ映画って事前に決めてから行くもんなの?」「普通そうじゃない?」「そうなんだ?! だって当日の気分とか色々あるじゃん」「えーそんなフィーリングなの?」それ結構気が合ってるんじゃないの? 

言いながら、アイスティーの入ったグラスをナプキンで拭く。大学時代にキャバクラで働いていた頃から、水滴が付いていると気持ち悪く感じるようになってしまった。ミナの手が視界に入る。ミナ、ネイル、ポリッシュ派なんだ。ポリッシュっていうか、もうなんか、マニキュアって感じだな。人差し指に赤色がはみ出ていかにも安っぽい。

付き合ってみたらいいじゃん。私がニヤついた笑い、を作れるように努力しながらそう言うと、ミナは「そうかなあ」と言った。なんか映画で趣味が違うのって結構ヤバいんじゃないのかなとか思っちゃうんだよね。マレフィセント観ません? って私が言ったら、全然なんか、ガッカリみたいな態度だったもん。アンジェリーナジョリーか〜とか言ってて。でもさ、年齢的にさ次付き合う人とかでもう結婚したい気持ちあるし。でもここの小さな違和感とかを無視したら、あとでさ、実はDV男でした、とかになったら怖いじゃん。

ミナそんな結婚したいの? 私が問うと、ミナは当たり前じゃん、と笑った。最近さあ。ミナも私の真似をしてグラスの表面を拭く。もしかしたらミナもキャバクラで働いていたのかもしれない。あの頃あんまり連絡取ってなかったからな。そういうこともあるかもしれない。

最近なんかさ、マジで夜中とかさ、起きてるとさ、めっちゃ病むもん。私孤独すぎるーーーって。こうやって死んでいくのかって思うとさ、なんかさ、ってか小学校の事務とかさ、しかも派遣だからさ、もうさ、誰でもできるっていうかさ。来年も同じ職場で働けるか分かんないし。誰からも求められてないじゃんとか思うとさ病むよね。結婚したいよね。

一息に彼女が言い、それは彼女が本当に思っていることなのだと分かる。そうだよねえ、と私は答える。

分かる。辛いよね。私も旦那とさ、きょう喧嘩してさ、世界に私の味方一人もいないのかよって思って。

この間から続いている冷戦のことについて話そう、と思った瞬間に、ミナの声が私の耳に届く。「いや違うでしょ」。私の気持ちは遮られる。「いや、なんか結婚してるから結局なんか、違うじゃん」。

伸ばしているのであろう髪の毛先が右へ左へとはねているミナ、アイスティーの氷がちっとも溶けきらない。

ええ。全然なんか結婚しててもさ、全然孤独だよ。言いながら、朝の嗚咽のような怒りを思い出す。結局お互いの問題ってお互いの、一人一人の問題なんだもん。なんか結局さ、私が妻として色々さ、仕事変えるとか頑張ってもさ、夫として頑張ってくれるってわけじゃなかったりとか。

ミナは「ええそうなんだあ、」と笑って、その言い方で私は、彼女がちっともその「そうなんだ」、に類する気持ちを抱えてくれているわけではないということが分かってしまう。彼女は嘘をつくのが下手だ。いや、そんなんだから結婚できないんでしょ、と思う。ボサボサの髪で、汚いネイルで、嘘つくのも下手で、手に職もないんだから、32になっても結婚できないのなんて当たり前じゃん。いや、そうじゃなくて。どうしてミナにこんなに簡単なことが伝わらないんだろうと思う。ミナも苦しいけど、私だって苦しくて、そのことを言ってなんでこんなふうに言われないといけないんだろう。

「だから違うって。」なんだか怒っちゃってるな、ボンヤリ私が考えている。あそこの天井から自分で自分を見下ろしているみたいに、私は私が感情的になっているのを見つめている。「だから私が言いたいのは、久しぶりに会ったのになんでそんな病んでるみたいなこと言うのかってことなんだって」、

ミナのリキッドファンデーションがよれている、多分それ、ベースとそのファンデ相性悪いんだと思うんだけど。前イプサ使ってるって言ってたけど本当? イプサでそんな変になっちゃうことある? なんで30超えて、似合うメイクの一つすら見つけられてないんだろうミナは、なんでだろう。

二つ隣の席のカップルが「こわあ、」と笑ったのが私たちに向けてなのだと気づく。ミナが「いや、なんかそうだよね。ごめんね」と言う。「いや、うん」。私こそ、と言うのが1秒遅れてしまう。最悪だ。

耐えきれずにスマホに目をやると、「佐藤さん」からLINEがきていた。助けを求めるようにアプリを開くと、来週夕食にでも行きませんか、と誘われている。ああ、あの佐藤さんか。「人妻って響きいいですよね、石田さん、旧姓教えてもらってもいいですか」、とかなんとか、やたらと大きな声で不倫を持ちかけてきた人。ブロックしようか、とためらったあと、いや彰に見せてからにしよう、と思い直す。

スマホに目をやったまま、「もうさあ2時間くらい経ってるじゃん、どうする、カラオケでも行く?」と私は問う。ミナはいいねいいねえ、と言いながら、トレイのゴミをまとめ始めた。