【ニセン文字小説】 欲情はそうぞうしい

その瞬間、自分という肉の塊のことを考える。明るい色のまつ毛がこちらを見据えるから、体の中身について思考を巡らせる。ねえ私たちが欲情すると膣の中から染み出す透明な液体っていったい全体なんなんだろうね、リンパ液か何かなの。何かなのかな? ははは。授業でやったやつ。覚えてる? 血液かなそれとも。どう思う、知ってるわけないか。ないよね。バスは10秒前と同じような速さで走り続けている、いるのに、彼女の手は必要もなく私の指を触り続ける、彼女の指が私の爪をぼんやりとなぞる。

心臓、から息を吸う、吐く、私の体から何かが抜けていく気がして息を止める。違うな。性欲が、「ごめん」、手を離す、「いいよ、」彼女がにっこりと笑う、性欲が抜けていく気がしたから息を止めたのだ。「、」電話番号、とかじゃない、メールアドレス、でもない、インスタのアカウント、でもない、何かを聞かないと、と思うけど、そんなの聞いたらもう二度と「そういうこと」できないだろうなって分かっていた。頭の中で賢いほうの私が変な顔をする。したいの? この人と? なんで? 私の肉体が息を吸い込むと、体の中をぐるぐる回る水分が応えて囁く、「どうでもよくない?」したいかしたくないかなんてどうでもよくない? どうでもよくない、どうでもよくない? どうでもよくない? 「、」やっぱり何も言い出せずに私の喉は閉まりきっている。何かを言えたらいいのに、何も意味しない言葉を、これから先の私たちの未来を何一つ確定させない言葉を。マフラーに埋もれた彼女の茶色い髪の毛が朝の光にまぎれてちらちら光る。

動きを止めたバスから吐き出されると冬の空気が喉を焼く。マフラーの中であたためられた空気を慎重に吸い込み、もだえる下半身のことを忘れようとした。

彼女が一緒の駅で降りたことを私は知っている。多分私たちの目的地は同じ場所だろう、朝のこの時間にこのバス停で降りる人はみんなそうだ。彼女の髪の毛からしたたっていた甘い香水の香りが脳に残って離れない。早く私に追いついてくれたらいいのに。彼女の目線が今私に吸い寄せられているかもしれないと思うとたまらなくなって、コートのポケットに右手を乱暴に突っ込んだ。横腹をつまむ、下から上にそうっと撫でると首の裏に鳥肌が立った。もうなんでもいいから、一人でいいからしたい、なんでもいいからこんな馬鹿みたいな性欲がどこかにいってほしい。吐きそうだ。したくてしたくて仕方がない。

太腿がふるえる、ジーンズの中で皮膚がこすれる、頭の中で彼女の細い爪が私のセルライトを撫でる。しわ一つないその指先が、波打つ凹凸を入念に検査する、まるでその動き一つ一つが私の皮膚をどんどん滑らかにしていくみたいに。下着は生理のときみたいに湿って重くなっていく。息を短く吐く、ハッ、という音が白くなって消えていく。

「あの、」

小さい声が私の左側から聞こえる、それが私に向けられたものだと信じ切るのに少し時間がかかった。「はい?」

遅くも早くもならない速度になるように努めながら、平静な顔を繕って首を動かす。「あ、」そこにいたのは彼女ではない女で、「これ」私を見つめて、「落としましたよ、」定期券を私に見せる。「あ、はい」

彼女の手に握られた色気も何もないパスケースを見て、私の体液がとたんに静まっていく。ああもったいない、なんとなくそんな言葉を思い出す。もったいない、もったいないよ、下着だってこんなに冷たいのに。手を伸ばした瞬間に彼女の指先が私に触れて、「あ、」声が出る、その瞬間、ふたたび胃がぎゅうっと縮まった。安堵している自分にすら気づく。

私は彼女の髪の毛を目に焼き付ける。この女の髪の毛を引っ張ってやりたい、そう思う、この女の奥歯の味を知りたい、「目を逸らせ、」首の後ろから理性が押し寄せてきて思わず私の黒目は宙を彷徨う。彼女は微笑み、「良い一日を」早足で歩き出した。

真っ黒なリュックサック、UGGのブーツ、黒いジーンズ、揺れ動く彼女のシルエットを見ながら、何かを言わなければ、と私は気づく。息を吸い切ると口蓋に空気がはりつく、水浸しになった舌の奥から唾液をせり上げ、一気に飲み込む。

「あの、」2メートル先を歩いている彼女に向かって声をあげる。「あのすみません、」彼女がゆっくりと振り向く、こんな顔の女に欲情なんかできるわけない、そう思えば思うほど私の頭の中はひどく混濁していく、脚がもつれる、

「このあと1時間ぐらい暇? 暇ですか?」回らない舌で私がそう尋ねると、彼女はゆっくりと瞬きをした。「なんでですか?」彼女はすぐに言い直す。「なんで?」上唇を舐める、「分からない」、私の唇がそう言うやいなや、彼女は口の端を吊り上げた。「いいよ」、

「このあたりなんもないよね」「うん」私たちは手を繋ぐ、指を絡ませる、爪と指の境目を彼女の小指が行ったり来たりする、はあ、と吐いた二酸化炭素が地球をどんどん汚していく、意識が明滅するぐらい切ない、こんなことなら昨日のシャワーでもっと入念に洗っておけば良かった、賢いほうの私がそう言う、私の苦手なムスクの香りがだらしなくあたりに漂い、私は太ももに力を込める。