【2000文字小説】もう二度と間違ったママでいたりしないから許してごめんね大好きだからね

死ぬほど疲れてたから、とかそういうのは絶対言い訳にはならないと知っていて、でも、死ぬほど疲れてたから、としか言えない。「ひかり今、拓海に虐待したんだよ分かってる?」祥太が吐き捨てたその言葉によって、頭の内側のほうにパーッと嫌な空気がたまっていく。あー、とも、うー、とも、なーんにも言えない。

世界のどこにも私が正しいって言ってくれる人いないんだろうね。虐待しちゃう理由も分かるよとか言われたい、でもそういうのは誰も言ってくれない。っていうか、虐待を許されるためにはもっと過酷な生活をしていないといけない。「親がそういうふうに暴力的な態度になるのは絶対に違うって、いつも俺ら話してるじゃん」、祥太の声、よりも前にタクミの泣き声、「だから何」。だから何?

中指の爪にルコニキアができてる。あー懐かしい。爪の病理。覚えたなー。「じゃあ私はじゃあ死ねばいいわけ」「何?」祥太の声は刺々しい、タクミは祥太にしがみついてずっと泣き続ける。今すぐ生きるのやめられるなら私だってそうするよ。この家は、この空間はたった今、2対1、多数決で私がいなくなるべきという結論が出かかっている。

「俺はちゃんとさあ、ひかりに、自分が今何したか分かってほしいんだけど」「何したって、じゃあ私は、虐待したから、母親やめればいいわけ、母親やめるっていうのはつまり死ぬってことじゃん」「そういうのじゃないでしょ」

なんでこんなにイライラするのかよく分からない。たかが外に出られないだけ、たかが祥太とタクミと一日中家の中にいるだけ。それは産後すぐだってそうだったじゃんって思う。タクミは一日いい子にしてた、最後の最後でどうしても牛乳を部屋中にぶちまけたくなっただけ、その上にオモチャを投げたあと、それを片付けて欲しくなかっただけ、それと同時にYouTubeでアナ雪2をもっかい観たくなったし、お風呂には絶対入りたくなかっただけ。

いつもはもっといいママしてる、コロナがいけないんじゃん、なんにも心の準備ができてないまま保育園もおやすみになって、日中なんにも仕事できないんだもん。通勤の途中に頑張って進めてたTOEICの勉強だってできないし。30歳になるまでにTOEIC800点以上取りたいのにこんなことで何ヶ月もグダグダできないんだって思っちゃうんだよ。

なのにさ、起きたら祥太はタクミと遊んでて、家事は先回りで全部終わらせてて、私はだから、私の居場所どこにもない。私、いてもいなくてもどっちでも世界が全部まわっていくじゃん、そういうのがすごい嫌なんだよ。

「私はだから、必要ないんじゃん」「ねえ、だからちゃんと現実と向き合ってって、ひかりがそういう態度だと議論が先に進まない」

そりゃあ祥太はさあ、体力あるからいいよね、なんでか知らないけど全然キレそうになったりしないからいいよね。私はこうやってすぐにイライラするんだよ、洗濯機めっちゃ叩いて、キッチンペーパーを床にすごい力で投げつけて、それでタクミに間接的に「これ以上泣いたらお前もこういうふうにしてやるからな」ってアピールするわけ、死んだほうがいいんだよ分かってるよ。育ちが悪いからそもそも子供なんて産むべきじゃなかったんだよ知ってるよ。

タクミは泣きやんだ、と思ったら顔を上げて急に「ながーいパン」と言う。思わず笑ってしまって、祥太も笑って、どうしていいのか分からなくてまた真顔に戻す。「どうしたの拓海、『ねずみさんのながいパン』読みたいの?」タクミは身をよじってこちらを見る。「ママ、ながーいパン、よもー」「ママに読んでほしいの? パパじゃダメ?」「ママ、ながーいパン、どうぞー」「分かった、ママが読むのね」「ママ、だっこー」硬直した表情とともに祥太からタクミを受け取る。「ママ、ながーいパン、よもー」「うん、読むよ」祥太から手渡された絵本を見つめる、彼の前でハイテンションに絵本の朗読なんてできる気がしない。「お風呂のとこで読もっか、読んだらお風呂入れるじゃん」チラリと祥太に目をやると、彼は小さく頷いた。

脱衣所に座り込むと、タクミは「ながーいパン」と再び叫ぶ。「はい、じゃあ読むよ、ねずみさんのながーいパン」「デズミサン!」「ねずみさん、いたねー」

ねずみさんは、ねずみさんの家族に晩ご飯を持って帰るためにとても急いで走っている。ぞうさんの家を、きりんさんの家を、うさぎさんの家を通り過ぎて、それからねこさんの家を怯えながら走り抜ける。なんでか分からないんだけど読んでいるうちに泣きそうになって、キムチを明日買わないといけないとかそういう下らないことを考えながらゆっくりゆっくり読んだ。

読み終わると、タクミは即座に「もーいっかい」と叫ぶ。「はいはい」どぎついピンク色の表紙をくるりとひっくり返すと、「デズミさん!」再び叫ぶその声。叫ばなくてもママはいつも聞いてるんだよ。ちょっと考えてから、タクミのほっぺたをうっすら触ると、「さっきはごめんねタクミ」と呟いた。

タクミは「もーいっかい」、と返すと、私の手を振り払う。「ママ、ダイジョーブー!? デキゥウー?! アリアトネー!」こちらを見ずに矢継ぎ早に繰り出される彼の言葉によって喉は一気に痛くなる、なんにも考えないようにしながら「できるよー、どういたしまして」と答えた。

ママ、タクミにママの代わりやらせちゃってごめんね、最悪だよね、ママもさあママのママにそういうのいっぱいしてきて、どれぐらい最悪なことかとかよく分かってるから、ほんとのほんとにごめんって感じなんだよ。明日からはちゃんといつものママやるからね。ママのこんなみっともないとこ忘れてね。二度とやんないから、大丈夫だから。こうやってなんかママだけ一番つらいみたいな顔してるのもごめんね、ほんとに何から何まで全部ごめんなんだ。

「タクミ」「もーいっかい」「うん、はいはい」タイトルを読み上げながら、スーッと心の中が平穏になっていくのがよく分かる。これを30分前にできなくちゃいけなかった、私はずっと弱いままだ。「ねずみさんの、ながーーーーーーーーーーーーいパン」、やたらと伸ばしたその言い方に、タクミが心底おかしそうに笑い声をあげる。