【短編小説】素敵なきみに毒を盛る、別れるその日は泣かないように

紫苑は犬みたいなものだ、だから私に忠誠を誓うのとはぜんぜん別な場所でよそんちのメス犬と恋に落ちたりする。

親指をせわしなく動かしながら、紫苑のスマートフォンをすみからすみまで点検する。きょうもやっぱりソヒョンちゃんと会話をしていた。かびっぽい布団の上で、紫苑はすこやかな寝息を立てる。

「ワンちゃん」口の中だけでそう言って彼女の髪の毛を撫でると、心臓が搾り取られるようにすいっと痛んだ。

3カ月間ずっと毎日きょうが一番悲しい日だと思いつづけているけど、きょうよりしんどい日はなかった気がする。だって彼女の髪の毛がやわらかくて私のシャンプーと同じ匂いがするから。布団にぱたぱたと染みを作ったその液体が鼻水だということに気付き、慌ててスマートフォンの画面を落とす。布団に潜り込むと、紫苑がぐるりと寝返りを打った。

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たとえば紫苑の、料理がやたらとうまいところが好きだ。「手伝うよ、っていうか私が作るよ」私がいくら声をかけても、紫苑は「一人で作らせて」と笑う。私、そんな料理下手かな? 邪魔? そう言いたくなる気持ちを唾液と一緒にぐっと飲み込む。「わたしは美香にわたしの作ったものを食べてほしいから」「私だって紫苑に食べてほしい」そう言い返すと、美佳はクンと鼻を鳴らす。

「美佳あ」低くて安定したその声。「いいじゃん、座ってよ、あつ森とかさ、なんでもいいからさ、遊んでて」紫苑は私の腰をばかみたいに優しく撫でた。あんまりそれが気持ちよくて甘えたような声を出しそうになる、のをすんでのところで止める。紫苑はもうソヒョンちゃんのことが好きなのだろうし、私とはいつ別れようかタイミングを見計らっているだけなのに違いないんだから。心が離れてしまった相手が発情するのを見るときぐらい白けることはない。愛情が醒めるときのパターンについて、私だってそれなりに知識はある。

彼女の手によって運ばれてきたご飯はちょっと過剰なぐらい湯気が立っていた。「えー何これ、おっとっと入ってる、可愛い」「クルトン入れたかったんだけどさー、なかったから」「かわいー。クルトンより良くないこれ? 発明じゃない?」「まじ? 気に入った?」「うん」「食べて」「紫苑は?」「おっとっと一人分しか残ってなかったから、美佳が全部食べて」

ソヒョンちゃんと紫苑のLINEのことを考える。私の分からない言葉で、私の知らない文化で、愛をさえずりあう二人。紫苑のLINEに彼女の連絡先が追加されたのを確認したあの日からずっと、どんなふうにソヒョンちゃんに呪いの言葉をかけるべきか考えている。

あのねソヒョンちゃん。想像の中のソヒョンちゃんはいつでも怯えていて、それが私にはとても楽しい。あなたはさ、LINEのやりとりをもってして、私より、というか、この世の誰よりも紫苑のことを知ったようなつもりでいるかもしれないんだけどね。そういうのって、本当に恥ずかしいぐらいの勘違いだから。

だって紫苑の韓国語はネイティブレベルからは程遠いはずで、語彙も少なければ表現力も、日本語を喋るときの彼女に比べたら劣っているに違いないわけよ。不意に出てしまう口癖も、誰かから影響されたんであろう言い回しも、出身の山梨県の方言も、韓国語を喋ってる紫苑が使うことはないんだし、仮に日本語で紫苑が喋ったからって、ソヒョンちゃんにはそういう言い回しがどういうニュアンスを持つなのかちっとも分かんないでしょう。

そういう乏しい情報の中で、紫苑のことを理解しているとかしていないとか、そんな議論できるわけないわけ。分かる? ねえ。どうせ未来永劫、あんたに紫苑のこと分かる日なんてこないんだよ。だから紫苑を盗るのやめてよ。紫苑も、理解してもらえないような女の子のこと好きになるのやめてよ。

ねえ。私以外を理解しようとするのやめてよ。

「どう、留学生の子」それとなく尋ねると、紫苑は「誰?」と返す。きょうのご飯もやっぱり紫苑は一人で作ってしまった。大豆とビーフジャーキーのトマト煮込み。いつも通り、材料が一人分しかなかったからと言いながら彼女は納豆ごはんを食べ始める。納豆食べはじめたら恋人関係はもう終わりよ。「ほら、日文の留学生の子、ソヒョンちゃん」「ああ、韓国の」「うん」連絡先知ってるでしょ、と続けようとするのだけど、必死に食い止める。なにもきょう別れなくなっていいんだから。

「LINEは交換して、会話も何回かしたけどね、それだけだよ」「でもめっちゃ可愛いっていうか、紫苑が好きなタイプの顔じゃん、LOONAのChuuちゃんみたいな」「あー確かに、Chuuちゃんに似てるかもね」「好きになっちゃう?」「ならないよー」

嘘をつくなよ。目がハートマークになった絵文字とかいっぱい使って毎日LINEして、それで「それだけ」って何? 私とするよりLINEしてるくせに、好きにならないってどういう意味。

「これ美味しいね」取るべき反応が分からなくなって適当にお茶を濁すと、「え、本当?」紫苑がやたらと大きな声で相槌を打つ。「うん、美味しい」「やったー。もう最近、美佳にどんなご飯食べてもらおうってそればっかりだもん私」

そう言って笑った彼女が少しだけスマートフォンに目をやるのを見た瞬間、胃のあたりから馬鹿みたいな力が喉を通過していく。言うな、と脳味噌が制するのに、体は理性のその正しさを理解してくれない。「あのさー紫苑さわたしソヒョンちゃんのこと好きなの知ってるスマホ見たから」紫苑が目を上げた。

箸にプリントされたシロクマのイラストを眺める。シロクマの横にはRelax, stay happy.という文字列が印刷されていて、stayのあとにそのまま形容詞って置けるんだっけ、とかそういう文章がチカチカと頭の中で回った。ぼわぼわした脳のままで言葉を続ける。「スマホ見るようなやつ最悪とか思うでしょ。でも浮気してたからまーやっぱ見たほうがよかったよね。紫苑もどっちにしたって別れたいでしょ、別れてもいいんだよ、ほんとに。私は全然、別れてもいい、紫苑を束縛したくないし嫉妬するのも疲れた」

紫苑は何度か口を開いてそのたび閉じる。「美佳」最後に彼女はそう言って、「私の、じゃあさあ私のスマホ、あの、壊していいよ」「はあ?」

「あのさ、美佳、あのさ、えっとさ、ソヒョンちゃんとは本当になんでもない、これとか、グーグル検索かけてくれていいから」紫苑がLINEの画面を見せる。「닥터독은 좋은가요?」「매우 마음에 듭니다~^^」ソヒョンちゃんとのLINEは相変わらず分からない。「いいって、そもそも私よりもLINEしてる人って時点でほんとに無理」「ねえー美佳あ、聞いてって、ごめんなさい」「じゃあ最初からLINEしなければよかったじゃん私がつまんないからってさあ」

胃の中で重たい感情がつっかえて苦しい、紫苑はしきりに右の手首を左の指で押しさわる。先に口を開いたのは彼女だった。「じゃあ言うけどさ、美佳は可愛くていつでも次の子にいけるから分かんないでしょ、でも私はさ、わざと嫌われるようなことしないといざ嫌われたときにショックすぎるじゃん」「何?」「美佳が私と全然違うから、私はもっと汚いから、不安で不安で死にそうなんですよいつも、」「意味が分かんないだからそれはソヒョンちゃんと浮気してましたっていう意味?」「じゃない」「じゃないって何?」「浮気はしてない」

どうしてこの期に及んでこういう苦しいいいわけばっかりペラペラ言えるんだろう、なんでそんなふうなやり方で最後まで私を傷つけるんだろう。「ソヒョンちゃんともうセックスした?」「え?」「ソヒョンちゃんこの家きた? もうどうせ荷物とかあるんじゃないの」「ないよ」「ある、歯磨きとかあるでしょ」「ないじゃん」「隠してるに決まってんじゃん」「美佳」

キッチンとかさあ。紫苑がやめてよやめてよと陳腐なヒステリックさで叫ぶのを強い力で振り払うとキッチンの戸棚を開ける、そこにはありとあらゆる種類の犬用の餌が入っていた。

「は?」

ドッグフード、ビーフジャーキー、ささみジャーキ、おっとっとを模した犬用のスナック菓子。並んだ商品はほとんど封が空いていた。

紫苑の絶え間ない呼吸音がワンルームにだらだら響く。「美佳、」

どういう言葉を使えばきちんと今の私の感情が正しく伝わるのか分からない、こみ上げてくる吐き気が苦しい、張れたような下腹部の感覚。

「これ私食べた?」紫苑の凍りついたような顔が私に向かって縦に揺れたのを確認したあと、そう、とだけ返す。

そう、そうなの。そうなんだね。頭の中が膨張するような感覚を持て余していると、無闇に爪先のあたりがムズムズしてくるのでゆっくりと足をあげる。叫び出したいような痛みが下腹部から順番に体の全体を包み込んで、声がうっすら漏れそうになるのをグッと押さえ込んだ。

心臓が明滅する。ハッ、と息を吐いたあと、思考は溶けたみたいになっていて、唐突に、なんでなんだかよく分からないけど、セックスがしたい、と思った。「紫苑」何を言えばいいのか分からないまま、固まった彼女の顔をじっと見つめる。そうこうしているうちに内腿から例のふるえがやってきてしまう、変な顔をしてしまわないように、足の指先でグーとパーと交互に作る。

どんなふうに口を開けばこの場をセックスに持っていけるんだろう、どうやったら自然な流れで紫苑に好きだよとかそういうふうな言葉を言えるんだろう、たとえば、なんだろう、一回貸しにしてあげる、とか、それに近いんだけど、そういう感じの、もっといいフレーズないのかな。ああ、スマホがあれば調べるのに。

彼女が何かを言いかける、その顔はやっぱり犬みたいで、私の20年間はこの瞬間のためだけに持て余されてきたんだろうな、と不意に強くそう思った。

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inspired by Yael Naim "She". 習作。