原田くんの話。
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原田くんは大学生の頃にできた友達だった。過去形で書いたのは彼と連絡を取るのをずいぶん前にやめてしまったからだ。
彼はとてもナイーブで、いつでも自分が傷つくための理由を探しているような子だった。私はそういう子を見つけると近寄らずにはいられない。何か楽しいことが起こるような気がしてしまう。
楽しいこと、と言ったのは嘘で、彼がいつか死ぬかもしれない、と思ったというのが本当のところだ。
この子死んじゃうんじゃないかな、いつか死んじゃうんじゃないかな。そう思うとワクワクした。ことあるごとに私は彼にLINEを送る、「お願いだから死なないでね」。いつか自己啓発本で読んだ言葉が頭の中でぐるぐる回る。
「脳は文章が否定文なのか肯定文なのか認識できません、例えば、"動くな!"と誰かに命令されたとき、脳はその言葉を"動け"と言われたのと同じだ、と考えるのです」
死なないでね、死なないでね、死なないでね。私は原田くんに何度もそう言葉をかける。そう語りかけることのできる自分ってどれだけ偉くて生きてる価値があるんだろうと思うと私は嬉しい、嬉しくて死にたい。
前後に「あなたのことが大切」とか耳障りのいい言葉を入れ込むので、原田くんは思わず私のことをとても大切に思い始める。人間は誰だって、弱っているときにかけられる甘い言葉にきちんと弱い。
騙されたよね。
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原田くんの吸うタバコはいつもヴィレッジヴァンガードで買えるようなものばかりだった。下北沢で集合して、彼の第一声は「タバコ家に忘れてきた」だった。「どうすんの?」「あっちにヴィレヴァンあるから買いにいく」「下北ってヴィレヴァンあるんだね」「下北になかったら日本全国どこにもないよ」
バニラだとかブルーベリーだとかメンソールだとか、彼が吸えるのはそういう類の煙草だけだ。私たちは熱っぽい街を左へ左へと歩いていく。
どうして彼がタバコを切らしていたからといって、私まで7センチのヒールで歩数を稼がなければならないんだろう。じゃあここで待ってるわ、ってクールに言えばよかったんだろうなあと踏切を横目で見ながら歩き続ける。
レジを待つ彼と私は言葉を交わす。「浅野いにおの新しい連載、新しい巻出たよ」「あのデデデみたいなやつ」「うん」「浅野いにお読んでない」「なんで?」「浅野いにおに金払ったら負けって感じするから」「ああ」
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駅を出てすぐ右のほうに行ってそれからすぐ左に曲がると変な飲み屋がある。めちゃくちゃ美味しいとか、めちゃくちゃ不味いとか、そういうことの何も言えない、ただのよくある居酒屋。その「どうでもよさ」が私たちには合っていた。
一度二人で奮発して、珍しい肉を食べられる焼肉屋にわざわざ予約をして入ったら、デート中のカップルみたいに扱われちゃって、結構しんどい雰囲気になったんだよね。
さっさとセックスでもしていればあんな不愉快な思いはしなかっただろうに、私たちは絶対にお互いのパンツの内側に触ったりしなくて、その点は多分、評価されてもいいポイントだったよ。そう思うよ。
でも誰に評価されるんだろう。いつもこうやって、正しい人間関係、的な何かを模索していた気がするね。
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私たちはお互いがお互いにとって超越的な存在でありたかったんじゃないのだろうか。今はなんとなくそう思う。
なんだかインターネットみたいな、においもしない、音もしない、必要な部分しか見なくていい、そういう関係性が私には新鮮で嬉しかった。
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セックスをしなくても私の価値を認めてもらえて、とても嬉しくて、なおかつ不愉快だった。
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ご飯を食べたあとはカラオケに入らないと死ぬ、と私たちは思っていて、そこで本当に夜通し歌を歌って、朝5時の朝日がさんざんに明るくて吐きそうだったのをよく覚えている。
朝マックのハッシュドポテトが私は嫌いで、なぜかというとそれは普通のポテトよりも咀嚼が面倒だからだ。どうして朝からこんなに自分の咀嚼の跡を見つめなければいけないんだろう。
さっきちゃんと塗り直してあげた赤いリップが包み紙にこすれて染みを作る。自分のだらしなさや女としての不出来さに死にたくなる。
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どこにも行けなかったらよかったのにね。原田くんもそう思うよね。
あのまま親のお金で、もしくは奨学金で、夜通しカラオケに行って朝マックだの吉野家を食べて、50代ぐらいになって肌の衰えとかが見えてきて、さすがにもうモラトリアムも駄目っぽいねってなったらいっせーのーせで一緒に死ねたら楽しかっただろうね。
そういう類の楽しさを享受することがどうして悪いことなんだろうね。君はピノキオPの「すきなことだけでいいです」を歌う、サビに一番共感しているんだろうなって分かっていたよ。
全人類が好きなことやったら世界は滅亡するけど。
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私はあの飲み会のあとすぐ煙草をやめて妊娠をしたよ。そのまま手に職の仕事を見つけて今は海外で住んでる。もう肉は食べないし、夜寝て朝起きる生活だよ。それからクリープハイプは聞かなくなった。でもムカつくからまだあいみょんは聞いてない。あのときサイゼリヤで飲んだグラッパ不味かったね。
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原田くんは「俺は自分に男性器がついているということが不愉快だ」、みたいなことをときどき言っていた。
原田くんのツイッターのお気に入り欄には女の子がレイプされるイラストばかりが並んでいることを私は知っていて、だから、彼のそういう言葉がどういう意味を持つのかが分からない。とりあえずグラッパで前歯を湿らせる。
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いつもは君との会話にはとても頭を使う、例えば君のよく知っている漫画の引用なんかを持ってくると君は楽しい気分になる、そういうことを知っているんだけど、私は「そうなんだ」としか言えない。言えない自分が不甲斐なくて不透明でごめんね。
そうなんだ。その相槌に込められた私の気持ちに、原田くんは気づかない。そのまま言葉を続ける。「俺は男だけど生きてるだけで加害者とかそういうふうに見られるのがすごいもう嫌なんだよ」
そうなんだ、そうなんだ。もう嫌なんだ。
いつか読んだカウンセリングの本を参考に、私は何にも考えずに、そうなんだ、と言ってみたり、オウム返しを繰り返したりする。
彼は何も気づかない。私が何にも考えていないことに気づかない。彼のためだけに今この時間が使われていることに気づかない、私が人生の貴重な時間を、彼のカウンセリングのために使ってあげていることに気づかない。
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お会計が終わって外に出るとあたりは暗くなっていて、彼がいつもの通り「じゃあカラオケ行く?」と聞く、私は首を振る。「なんか眠いから」
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夕暮れの道を一人で歩く、BoAのVALENTIを聞く、浜崎あゆみを聞く、アッコゴリラを聞く。
「今から帰るね」と夫にLINEをしてスマートフォンを閉じると、私はもう原田くんのことを忘れていた。
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じんわりとした喜びとともに改札を抜ける。