【短編小説】「病めるとき」の私のことを君は嫌い、私だってこんな私は嫌い

涼太が由麻を独占するので、私は手持ち無沙汰でガルちゃんを眺める。ガルちゃんって全然面白くないんだけど、インターネットの世界でとりあえず暇をつぶせる場所がここしかないから仕方がない。もっとJO1とかなんでもいいけどアイドルたちの供給があったらこんなふうに暇にならなくて済むのに。

ガルちゃんにいる人たちは大抵のばあい中国と韓国を憎んでいていまだにコロナのことを武漢ウイルスと呼ぶ。絶対コロナって言ったほうがみんなに伝わるし、「ぶかんういるす」なんて入力するのかったるくてやってられなくない? とか思うけど、もう「ぶ」って打っただけで予測変換で武漢ウイルスって出てくるだろうからあんまり負担にならないんだろうな。

生理用ナプキンみたいなピンク色がふんだんにあしらわれたサイトデザインの中で、差別と偏見がまるで常識みたいに囁かれる。こんな馬鹿馬鹿しい偏見を持っている女の人がこの世にこれほどたくさん存在するのか、本当だろうか。息を浅く吸う、Safariを閉じる、閉じた瞬間、由麻の泣き声が聞こえてきた。

「由麻ちゃんどうしたの」スマホを置いて娘のもとへ向かうと、同時に視界に映る涼太の不機嫌そうな顔。胃がどんよりと痛みはじめる。無理に笑顔を作って口を開く、「由麻ちゃん、どうしたのー。ママと一緒に遊ぶ?」

泣き喚く由麻に私の声が聞こえているのかは実際よく分からない。彼女は地面に突っ伏して泣き喚く、それから怒りのあまり持っていたシルバニアの人形を力いっぱい地面に叩きつけた。小さな音を立てて転がるウサギ。

私は無理やり、全身に力を入れる。きちんと肩のあたりをこわばらせなければ倒れてぐにゃぐにゃになりそうだ。喉の奥の奥が絞られたように苦しい。「あらー由麻ちゃん、ウサギさん痛い痛いって言ってるよ」大丈夫、いつかみたいに怒鳴らなかった。大丈夫、まだ何の問題もないママだ、今のところ。

安堵した瞬間、涼太が口を開く。「由麻あ、ママが来て怖いよねえ」

「あっちでパパと一緒に遊ぼうか、ママは由麻のこと怒るから嫌だよねえ」

泣き喚く由麻を涼太は無理やり抱き抱える。由麻の足が涼太の身体中を蹴り上げるのが見えた。泣き声が目から鼻から入りこんで酷い頭痛がする。

涼太は私に一瞥もくれず、「用がないならネットとかしてたら?」と吐き捨てた。何か言い返したいのだけど、何か言葉を発した瞬間に今朝食べたもの全部を吐き戻しそう。私が何も言い返さないのを確認して、涼太は演技っぽいため息をつく。「好きでしょ? 由麻よりネットしてるほうが好きなんだよね」

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涼太がこういう態度を見せているのは6日前からで、私の体調が悪くなってきたのも6日前からだ。

何かがおかしい、と思ったのは、その日の朝10時。ただただだるくて、日の光が刺すように眩しかった。まるで二日酔いみたいな気持ち悪さの中リビングまで歩いていくと、由麻と涼太がすでに起きて遊んでいる。「おはよう」涼太が笑う。「もう8時半だよ」「涼太、私生理前かも」はい、その顔ね、分かってますよ。でも、気持ち悪いのだから仕方ない。「気持ち悪い。きょうあんまりご飯とか作れないかも家事も」「バイトは?」「木曜は休みだって」「え。俺が聞いてるのは、明日は? ってこと」「明日は休む」「連絡したの?」「今から」「っていうかじゃあ明日の分の収入なくなるならきょうはなんかご飯は自炊しなきゃじゃん」「あー」「分かるよね? Uber Eats頼んだりできないよね?」「あー」「できないよね?」「うーあー、うん、なんとかする」「そうだよね」

涼太は3月から、火曜日と木曜日が休みになっている。厳密にいうと休みではなくてリモートワークなのだけど、彼が家でできる仕事はほとんどないから、休み、と言ってしまって構わないと思う。

給料は支払われるのだけど、在宅の日は残業ができない。そういう日が一ヶ月で8日も増えて、彼の手取りは目に見えて減っている。らしい。詳しいことは知らない。だから私がバイトを休むと、家計は赤字になる可能性が高い。そんなことは私だって分かっている。

でも、理屈として分かっている、ということと、私の体がその事実に対応できるか、というのは、全然違う問題だ。

由麻は6日前のその日、やたらとご機嫌で遊んでいた。パパもママもいる平日は彼女にとって喜ばしいことだろう。きょう、今さっきと同じように、彼女はシルバニアファミリーで遊んでいた。最近お気に入りなのは、ウサギやリスたちにひたすら架空の階段を登らせることだ。トーントーントーントーン。彼女ははしゃぐ。どうしてこんなに大きな声を出すんだろうか? 彼女の声が頭の中でガンガンと響く。

明滅する視界の中で涼太が顔を歪める。「っていうかだから、俺はピル飲んだらいいって言ってるじゃん。俺のお姉ちゃんにこないだまた聞いてみたら、気持ち悪くなくなるまで3ヶ月ぐらいかかるとかさあ、かかるって言ってたよ、だから気持ち悪くても飲み続けないといけないもんなんだって。前回はさ、あなたは逃げたじゃん。でも由麻にも本当に迷惑なんだから、ちゃんと向き合いなよ」「ごめん、その話今度でいい?」「ほらまた逃げる」

スマホを手にとってソファまで移動すると、腰から砕けるような疲労が私の身体中を襲った。どうしてこうやって弱っているときに特別ひどいことを言うんだろう。それにしてもこのPMSはひどすぎる、一度やっぱり婦人科で診てもらったほうがいいのかもしれない。Safariを開いて、「PMS 酷い」と検索窓に入力してみるのだけど、ブルーライトが眩しすぎて画面を見続けることができない。目を閉じる。息をするだけで果てしない疲労感だ。

由麻が私のほうに向かってくる。私の膝にべったりと身体中をくっつけながらよじ登ってきたあと、「ママ」と私を呼んだ。「かいだんトコトコ、して」彼女はシルバニアファミリーをまっすぐ突き出す。頬に彼女の拳が当たって小さく痛んだ。

涼太は由麻との正しい遊び方が分からない。というより、彼女が「かいだんトコトコ」で遊ぶとき、そこには正しい階段の登り方の手順があるのだが、それに涼太は気づいていない。声の作り方、身振り手振り、選ぶ動物の種類。日によって変わるその手順を、なぜか涼太には理解ができない。

だから由麻は、シルバニアファミリーで遊ぶときは私が必要なのだ。

正しく笑みを作りながら彼女に返す。「由麻、お母さんね、なんかきょう眠たいのね。パパと遊べる?」「おきてー」「お母さんね、すごく疲れてて」「トコトコ、してー」「由麻、お母さんできない、YouTube観る?」「みーなーい、トコトコ、するー」

涼太が私に向かって口を開く。「あのさあ、遊んであげればいいじゃん、今しかないんだよ子供と遊べるのなんて。そんでYouTubeってどれぐらい子供の害になるか分かんないの?」「トコトコ、してー」

呼吸がどうしてこんなに浅いんだろう。吸って吐いて。信じられないくらい頭がぼんやりする。頭が痛い。疲れた。寝室に戻って好きなだけ寝たい。「トコトコ、してー」由麻はグイグイと私の鎖骨にウサギの耳を押し当ててくる。本当に痛い。

一瞬、やるせなさで目の前が明滅するのが分かる。

「ごめんね、お母さんできないよ、ごめんね」

由麻を引き剥がして立ち上がる。由麻は当然のように泣き出した。「ごめんね」もう一度呟いて、洗面所へと向かう。

洗面所のドアを閉めた瞬間に、床に倒れ込む。

洗濯機やっぱり回されてないよね、そう思いながら目を閉じた瞬間、私は眠りに落ちていた。

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「PMSでイライラしたり育児放棄したりはもうしないって話したじゃん」リビングに戻ると、涼太は私にそう告げる。「由麻は」「寝てる」「ああ」やっぱり体はだるい。涼太が座っているそのソファで休めたら、と思っていたのに。「私ほんとにしんどい、由麻と寝てる」「いや、あのさ。PMSでしょ? ピル飲まないって選択をしたんだったら、じゃあPMSに対して自分は何ができるのかって考えるのが当たり前なんじゃないの?」

うん、と私は答える。脳味噌はまるでサランラップでぐるぐるに巻かれたみたいに漠としている。やるせなさが蒸留され、霧散することなくラップの内側に留まる。痛い、体のあちこちが痛い。鼻の付け根が焼けるように痛いし、お尻の骨と腰が痛い。

息が苦しい。

「あのさあ、由麻が遊んでって言ったときとか、泣いたときとかに母親がすることって、洗面所行って豚みたいに寝ることなわけ? そうやって育てられた子はサイレントベビーになるから絶対に由麻の要求にはちゃんと対応しようって何回も話したよね。俺たちは由麻が3歳ぐらいになるまでは絶対に自分の都合とかは我慢して耐えて由麻を育てるんだって話したよね? あんたがPMSになんの対応もしないっていうのはもうそれは虐待なんだよ、お前は虐待してるんだよ、警察に自首して逮捕されてくれよ」

ほら行けよ。涼太はわざわざ立ち上がり、玄関に置いてあった私のサンダルを持ってくると、私のほうに投げ捨てる。「由麻が生まれて2年も経つのに、まだまともに親の役割も果たせないって、人間としてなんか異常だよ」

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翌日の体調はもっとひどくなった。出勤する涼太を見送ったあと、私は安堵しながら由麻にYouTubeを見せる。iPadを起動して由麻が好む動画にたどり着くのすら億劫でしんどい。

土曜日になっても体調はひどいままだった。生理は一向に始まってくれず、私は起きてきた涼太に「きょうも具合悪くて」と告げる。日曜日も同じだった。涼太はその都度眉を潜め、「なんで何も対応が取れないの?」と不満をあらわにする。

月曜日もバイトを休み、火曜日もバイトを休む。だんだんだるさは落ち着いてきたのだけれども、やっぱり歩くだけでゾッとするほどの疲労感だ。

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それで火曜日だ、今の今だ。由麻の泣き喚く声が頭の中でグルグルと回ってただひたすら気持ちが悪い。

「ね、由麻、パパとねんねの部屋で遊ぼう」

涼太は泣き叫ぶ由麻を抱えて寝室のドアを叩きつけるように閉める。足元を見やると、シルバニアの人形がいくつも転がっていた。

涼太が朝に飲んでいたらしいコーヒーのマグカップに鼻を近づけて息を吸い込む。鼻腔がひどく痛んだ。昨日と同じように、何にも匂いがしない。

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私は多分、コロナに感染しているんだと思う。

喉元はこの事実があまりにも恐ろしくて震え続ける。息が苦しくてたまらない。

誰にも言うわけにはいかない。涼太は私を支えてくれない、きっと由麻を連れて実家に帰ってしまう。

でも私は多分、ものすごく軽症だから。それは救いだ。ネットで入院になった人のケースを読んだことがあるけど、私よりもっとしんどそうだった。私は発熱も咳もない。

これからひどくなるんだろうか。由麻にうつしてしまったらどうしたらいいんだろう。子供が死んでいるらしいとニュースで読んだ。日本でももう死んでいるんだろうか? 涼太はどうだろうか。

ニュースではコロナにかかった芸能人の妻が、彼を献身的に看護している。羨ましくてたまらない。我が家だってコロナに感染したのが涼太だったら、私ももっといい妻を演じることができたのに。涼太がコロナに感染してくれていればよかったのに。

息を吸い込む、腰が砕けそうなぐらい痛い。ゆっくりと地面に横たわる、フローリングの床が私の背中を冷やしていく。

私は狂っているんだろうか? 私がもっと普段からいい妻をしていればこんなときでもちゃんと家族全員でこの事態に立ち向かえたんだろうに。私はこの家族の中で必要な存在なんだろうか? 遠くから由麻の声が聞こえる彼女は笑っている。蛍光灯が眩しい。目をつぶる。息を吸い込む。分かる? 分からない。吐きそう。頭の中で架空のガルちゃんのスレッドをスクロールする。押しつけの憲法はいらない。中国と韓国との国交を断絶せよ。断絶せよ。断絶せよ。由麻はこんなところにもシールを貼ってたんだ。髪の毛に涙がへばりついて気持ち悪い。歯磨きしたんだっけきょうの朝? 気持ち悪くて吐きそう。

身体中が痛い。「ああ」声を漏らす。明日はバイトに行けるんだろうか、早く復帰がしたい、早くまともな私にならなければ。誰にも感染したことは言えない。ちっとも褒められた態度じゃないって分かっている。ガルちゃんですごい叩かれてたな卒業旅行に行ったコロナの感染者。

私もきっと叩かれるんだろうけど、私は検査したいなんて思わないから大丈夫、誰も私のことを知らない、誰も私のことが分からない。

声が聞こえる。由麻と涼太が声を合わせて「トーン、トーン、トーン」と言っては笑う声。目を開く、目をつぶる。

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誰も私のことを知らない。

どこもかしこも私だけがこの世界で一人だ。