【短編小説】リエちゃんは若くて綺麗で賢くてそのうえ性格がいい

リエちゃんは賢い。それに美人だ。

仕事の飲み込みが速いのはもちろんのこと、飲み会でお酌をするタイミングなんかも完璧だ。計算高いとかそういうわけでもなく、これが彼女のありのままらしい。かれこれ半年ずっと一緒に仕事をしているのだけれども、全然嫌味なところを感じない。

彼女と同じ24歳だった頃、私は毎日ふてくされていた。もちろん、仕事は壊滅的なまでに不得意だったし、日がな一日、なんだか分からないことで憤ってばかりいた。私を怒らせるものはそこかしこに転がっていた。うまくいかない人生、当時の恋人、馬鹿みたいなことばっかり言ってくる家族。

リエちゃんは、機嫌よく仕事をする、という高度な技術を、たったの24年間で身に付けてしまったらしい。そういう技能の重要さに私が気づいたのは、ようやく最近になってのことだ。

「うちの息子もリエちゃんみたいになってほしいわあ」私がこぼすと、リエちゃんは勢いをつけて手を左右に振る。「私なんて、全然ですよ、全然」美容院みたいなシャンプーの匂いが、嫌味にならない程度に彼女からたちのぼった。「全然って、何が?」「なんか私、だって、全部中途半端じゃないですか」「そうかな」「いや、コンプレックスなんですよ、なんか」「そうなんだ」

なんでこんなにモヤモヤするんだろう、と、その日の帰り道に私は思う。夕方に歯磨きをしながら思う。翌日の満員電車に乗りながら思う。そうしてその日の夜、布団に入る段になって初めて気づく。私は彼女がいうところの「中途半端」以下なのだった。

私と彼女の業務内容は似たようなものだし、おそらく給料もそこまで差があるわけではない。なのに、私は彼女みたいにTOEIC800点のレコードを持っているわけでもなければ、簿記の1級を持っているわけでもない。

彼女が中途半端なんだとしたら、私はなんだっていうんだろうか。中途半端にすらなれない、望みのない、どうしようもない、しかも43歳の、バカでブスなおばさん、そういうことになるんだろうか。

布団の上で息子がぐるぐると寝返りをうつ。彼はこれまでの人生で一度も布団をかぶったことがない。布が体に触れているとどうしようもなく腹が立つらしい。私にはそういう感覚は分からない。

本当は彼の就寝スタイルについて事細かに知っているのはあまり褒められたことではない。だってもう彼は小学4年生なのだから。いつまでも親と一緒に寝ていてはいけない、自分の部屋を持つべきなのだ。

この間産んだと思っていたのに、二人目も産めないまま、すさまじい速さで10年が経った。

私は寝転んだ姿勢から、左膝をぎゅっと抱える。

彼のために一人部屋を作るとすると、3DKの家に引っ越す必要がある。この地域で3DKの部屋を買ったり借りようとしたりしたら、いったい全体どれぐらい月の固定費が上がるんだろう? たとえば仮に3万円ぐらい? どうなんだろう。Suumoを見てみないと分からない。

ただでさえカツカツな生活の中、削れる費用なんてどこにあるんだろう。どうすれば息子にまともな生活を提供できるんだろう。かかりきったエアコンの冷気が肺に苦しくて、なるべく丁寧に息を吸い込む。

リエちゃんは今後の人生でこういう類のみみっちい悩みを持つことなんてないんだろうな、と思う。きっと彼女は最初から3DKの家に住んで、0歳児のための「一人部屋」を作ることができる。

というより彼女は、彼女の未来の夫に対して、さも当たり前のことのように「私は3DKのマンションに住みたい」と主張することができるし、彼女の夫も、彼女の要望を、当たり前のように叶えることができるに違いない。

それはそういうものなのだ。彼女は綺麗で賢くて性格がいいから、要望を表明するための、もしくはその要望を実現するための権利を生まれつき持っている。

息子は寝返りを打ち続ける、シーツのこすれる音を聞きながら、私は脳のすみずみが徐々にぼやけていくのを感じた。

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リエちゃんって実家どこなの? そう問うと、彼女は「東京です」と応える。「あ、東京なんだ。じゃあいつでも帰れるね」「っていうか会社のめっちゃ近くなんですよ実家」「そうなの」「はい、根津なんで」「え、根津って湯島とかの隣の? っていうか、東大のとこ?」「はい、そうですそうです。だから、千代田線乗ったら一本です」彼女は笑う。

実家に住んだりしないの? と聞く。踏み込みすぎたかな、と身構えたが、彼女はちっとも気にしていないような口調で「絶対無理です」と眉間に可愛らしくシワを寄せた。「私の家、めちゃくちゃ東大の近くだったんですけど、すごい臭くて最悪なんですよ」「え?」「あ、えーと。汚部屋とかそういう意味じゃないですよ、あの、東大が。周りにイチョウの木がいっぱい生えてて、秋になるとギンナンがすごい落ちてくるんですよ、それがめっちゃ臭い」「へー、知らなかった」「そうなんですよー」

それが嫌で仕方なくて、就職したら絶対ひとり暮らしするぞって思ってたんですよ。そう続ける彼女に、私は笑う。笑いながら、今この子の頬を張り飛ばしたらどんな顔するんだろうなとなんとなく思う。どうしてそんなふうに思うのか分からない。私はときどき彼女をそうやって殴り飛ばしたくなる。

20歳も年下の人間に対してこうやって無茶苦茶な気持ちを抱えるのはやっぱり私が人間として未熟なのだからだろうな。自分があんまりにも予想通りに低俗なので、たまらなくなってストッキングをさする。

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休憩時間、私はスマートフォンを使って、東京大学周辺で借りられる3LDKの賃貸を検索する。27万円、29.8万円、28.5万円、31.5万円、75万円、たまに16万円。でも、16万円の物件は占有面積が嘘みたいに狭い。

リエちゃんの親はどんな職業の人間なんだろう。どうして文京区に住む必要性があるんだろう。仕事や事情があって仕方なく? 仕方なく文京区に住まないといけない人間ってどんな人間なんだろう。お隣の荒川区に住むのではいけないのだろうか。グッと家賃は安くなるのに。

それとも、実家がもともと文京区にあるんだろうか。文京区に実家。いいですね。前世でどんな徳を積めば、日本の中心に実家がある家に生まれられるんだろう。

Suumoの画面を開いたまま、カバンから昼ごはんを取り出す。朝、息子のお弁当を作ったあと、5分で準備した自分の食事。冷やご飯を解凍して、ふりかけを振って、適当に握っただけのおにぎり。水滴がラップについて気持ちが悪い。でも、食べなければ仕事にならない。喉の筋肉を無闇にこわばらせながら咀嚼を続ける。

リエちゃんが私の実家みたいな環境で育っていたら、はたしてリエちゃんは今と同じぐらい聡明でいられたんだろうか。何口目かのご飯を口に運んだとき、そんなことを思う。

こういうことを考えてはいけない、あまりにもおとな気がない、そういうことは分かっているのだが、45分の休憩時間はぼうっと過ごすにはあまりに長い。

「うちにはあなたを大学に行かせるようなお金はないよ」と私の両親は苦笑をした。「だいいちあんた、そんな頭いいわけでもないんだから、大学なんて行ったらお金がもったいないよねえ?」

もったいないよねえ? と語尾の上がったその言葉はまさしく私に対する問いかけの言葉だった。あなたは、自分の頭が悪いと思うよね? 大学に行くにはお金がもったいない人間だと思うよね? 私は神妙に頷く。確かに、偏差値のあんまり高くない高校に通っていたのにも関わらず、学力テストで学年5位以内を取れたことすら、ただの一度もなかったわけだから。

そのまま、私の母親は言葉を続けた。顔も悪い、頭も飛び抜けていいわけじゃない、特技があるわけでもない、あんたみたいなヘチャムクレは、へんに大学なんか行くより、さっさと大きい会社に入って、まともそうな人と結婚するしかないんだよ。

彼らが言う「お金がない」という言葉は、厳密には「あなたのためにお金を稼ぐ気力が湧いてこない」と言ったほうが、ニュアンスとしては正確だった。実際彼らは、仲間内での旅行や飲み会なんかにはしょっちゅう参加していたのだ。

彼らは、私の将来のために、自分たちの今の生活を犠牲にしてくれることはない。そういう事実に直面するのは、17歳の私にとってあまりにも恐ろしいことだった。それは、生きている根拠そのものがぐらつくことだ。

私は彼氏を殴り、友達と絶交し、そうやって親への苛立ちをしずめようとする。全部の人間関係がグチャグチャになる。成績はどんどん悪くなり、私は親の言葉通り、「ヘチャムクレ」の人間になっていく。

どうしようもない、私はどうしようもない人間なのだ。彼氏との別れ話がすんだドトールで、私はしずかに、人生に対して、一切の抵抗を諦めることを決意する。そうして、学校が斡旋してくれた企業に、滑り込むようにして就職をした。

経理部門での仕事は、好きでも嫌いでもない。どちらかと言えば嫌い、かもしれない。でもとにかく、私にはいつでも、その仕事だけが与えられていた。私には与えられたその選択肢をありがたく押しいただく他には何一つ選択肢はなかった。あったのかもしれないが、私はそれには気づかなかった。

そういうままならなさだけを積み重ねて、気がつくと私は43歳になっている。

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ランチから戻ってきたリエちゃんは、私の食べていたお弁当をちらりと見ると、「あ、お弁当! すごい」と叫ぶ。「すごくないよ、かなりひどいよ」「え、すごいですよ。私、朝とか本当に起きられないんで、すごいなって思います」「あはは」「ってか作るだけじゃなくて、帰ってきてからすぐにお箸のケース洗ったりとか死ぬほどめんどくさいじゃないですか、っていうか、私はめんどくさいなって思っててー。ほんとに、お弁当作るのって才能だなって思います」

才能。

私は顔を上げてリエちゃんをまっすぐ目に入れる、彼女は「ほんとにすごいですよ」ともう一度呟いた。

きっとリエちゃんの親は、リエちゃんの持っていた、あるようなないような微かな才能を掴まえて、それをリエちゃんに意識させることに余念がなかったんだろうなと思う。そういうことができるぐらい、いつでもリエちゃんのことを注意深く見つめていたのだろうなと思う。

リエちゃん、計算うまいね。リエちゃん、英語が得意だね。リエちゃん、いろんなことに集中して取り組めるんだね。リエちゃんはすごいね、リエちゃんは賢いね、リエちゃんはかわいいね。

「すごいねリエちゃんは」私は心からそう言う。リエちゃんは本当に賢くて、本当に綺麗なのだ。「えっ、何がですか」リエちゃんは突然褒められても、変にたじろいだりしない。「なんか、褒め上手じゃん、いつも」

ああー、それはなんか、はい、それはよく言われるかもです、あはは。リエちゃんは笑った。

口元で綺麗にこぢんまりと並んだ彼女の歯を見ながら、さらさらになっていく頭の片隅で、あはは、と笑う私の声を出力する。エンターキーを押すと流れる私の笑い声。そういうふうな簡単さで全部の感情が処理されればいい。

笑いながら私は「おかしい」と呟く。オッカシイ、という音になるように慎重に喉の角度を決める。ああ、リエちゃんなんてこの世に存在しなかったら良かったのに。心の底からそう思う。

彼女は若くて、彼女は可愛くて、彼女は賢くて、彼女は自分が生きていることの根拠をちっとも疑っていない。こんな人が存在していてほしくなかった。私は私のままで、私の人生を、そこそこにハッピーでラッキーなんだと思っていたかった。こんなふうに目の前に、嘘みたいに恵まれた人間が現れてほしくなかった。

「あー、息子がリエちゃんみたいに育ってくれたらいいのに」そう呟くと、リエちゃんが「いやいや、だから恐れ多いですって」と無邪気に言い払う。「ほんとに、私、そんなすごい人間じゃないですし」

いや、リエちゃんはすごいよ、と言いたいのに、喉のあたりに言葉が張り付いたようになって出てこない。「あ、」そう発した私を、リエちゃんは見つめてくる、「ちょっと、お手洗い、行ってこよーかなー」私は笑顔を作る。「はーい」リエちゃんも笑う。

お手洗いにたどり着くまでの廊下で、泣きたいような殴りたいような変に火照った気持ちが私の脊髄をじーんと支配する。化粧ポーチを持ってくればよかった。だからやっぱりこういうところが私は馬鹿なのだ。

鼻水がたれてくる、ずっとすする、もしかしたら私はすでに泣いていたのかもしれない。そうなのかな。息子がリエちゃんみたいな人間に育ったら、私は嬉しいだろうか? 嬉しいと思いたい。そうでなくてはいけない。そういうものなのだから。

もう一度鼻をすする。そうだよね。私はそう思う。

手を伸ばす。それから、化粧室のドアを開ける。