【短編小説】仕事を辞めて育てた一人息子は頭が悪いし反抗期、彼に捧げた時間は無駄だったのだろうか

少女が喘ぐ。着ているのか着ていないのか分からないほど透けた制服ごしにゆれる、大きくやわらかい胸を少年に押し付ける。少年は股間を抑える。おもわず射精をしてしまいそうになったのを抑えるために股間を抑える。彼は慌てる。慌てふためく。私は本を閉じる。

空気を吐くと思ったよりも心臓が鳴っていた。息を止めていたかもしれない。

知慧(ちさと)の部屋は腐ったおしっこのような臭いがした。思春期の男の子の部屋なんてそんなものだと周囲に言われていたけれど、やっぱり違うような気がする。

薄っぺらいブックカバーの付いたその本を元の位置に戻しながら、口だけで息を吸った。

本当に臭い。この家の中で、知慧の部屋だけ明らかに異質な臭いがする。

全人類のうち半分は全員、思春期になるとこんな汚らしい臭いを発するようになるのか、もしくは、こういう臭いを発するような場所でも平気で生活するようになるのか。

そんなことはきっとない、たんに彼が汚いだけなのだ。私はそう思う。

*

反抗期を迎えた息子が言うものであるらしい「うるせえババア」とか、そういう類の直接的な罵倒を、知慧はいっさい口にしない。

というより、彼は私に対して、あらゆる言葉を発しない。ただ部屋にこもっているだけだ。

私の夫が稼いだ金であてがってやった六畳の部屋を閉じ切り、誰とも一切会話をしない、目も合わせない。腹が空くと部屋から出てきて、ご飯を口に放り込む。私が作ったおかずをなんの感謝もなく咀嚼し、ニキビだらけの顔を大きく伸縮させる。なぜあんなに大きな口を開けても彼のニキビは千切れないんだろうか。

以前、彼が食べているところを見ながら、なんとなく「プロアクティブのCM見たけどニキビ治るらしいから買ってみたら、お金出すけど」と聞いてみたところ、本当に鬱陶しそうな顔で無視をされた。

もう少しほがらかになれないものなんだろうか。買って使えば治るかもしれないのに、気にしているのは明らかなのに。

*

彼が産声を上げてから五年間、彼への愛情を枯れさせてはいけないと、ほとんど念仏のように繰り返し繰り返し自分に言い聞かせてきた。

知慧が小学校に入ったとき、ようやく、彼の愚鈍さを嘆くことを許されたと思った。私はどこか恐ろしいような、もしくは安心したような、みょうに酸っぱい気持ちがした。

うっとりするほど繰り返される日々のテストで、彼が取ってくるのは、五十点だの、六十点だの、到底「よくできた」とは言い難い点数ばかりだった。

「なんでこの程度のことが難しいんだろう」夫に愚痴ると彼はムッとしたように言う。「小学生なんて誰でもそんなもんだろ、初めて習うことなんだからできなくて当たり前」

そんなことないよ、と私は言いたかった。

私は小学校の頃、百点以外を取ったことなんて一度もなかった。百点は取れて当たり前のものだった。

知慧の頭が悪いのは、じゃあ、あなたのせいなのかもね。そう言いそうになるのを、かろうじて堪えてあげる。「そんなもんか」と言いながら穏やかに笑うと、脊椎のあたりからいとも簡単に、私の尊厳が散っていくのが分かる。

一年生の夏休み直前、知慧が生まれて初めてもらってきた通知表には、彼がどれほど愚鈍であるかが事細かに書かれていた。「がんばろう」、「がんばろう」、「がんばろう」、ときどき「できる」。「よくできる」は一つもない。

分かりやすく、伝わりやすく、三段階評価で、生まれて五年目の子供の存在価値が測られる。それまで生きて呼吸をしていれば良いということになっていた彼は、それ以来、新しい尺度でジャッジされるようになった。

求めたわけでもないのに、彼は他者と比較され続ける。勉強もスポーツも顔の見てくれも、ちっとも取り柄のない子供。そういう事実を、数値は驚くほど冷酷につまびらかにした。

こんなことができません、こんなことが不得意です、こういうところはご家庭でサポートしてあげてください。そのたび私は彼に小さく失望する。

もしかしてこの子は本当に、何をやらせても平均かそれ以下程度にしかできない子なんじゃないだろうか。テストの結果を見るたび、通知表をもらうたび、私は強い不安にかられる。

なんとかして彼の才能を見つけだしてやろうと通った公文も、サッカーも、そろばんも、英語教室も、ピアノも、彼は一年ほど通っただけですぐに「もう辞めたい」と言い出した。

お世話になりました、と教室の先生に頭を下げる、その帰り道のたび、私は彼に語りかけた。「何か一つでも自分に自信を持てることを作ればそれでいいの」彼は神妙に頷く。「それさえ続けられるなら、他のなんでも諦めて構わない、ってぐらい好きなものがあれば、人生それなりに楽しくやっていけるんだからね」

お母さんは何が好き? そう知慧が聞いてきたのは彼が小学四年生の頃だった。少し面食らってから「知慧が好きだよ」と返した、と思う。「知慧が大好き」、再び言った。そうだと思う。

彼が十二歳になり、習い始めて半年しか経っていなかった水泳を「もう辞めたい」と言い出したとき、私はとうとう、彼の次の習い事について考えるのをやめようと思った。もう十分だ、もういいだろう。そう思った。そうして全ての習い事を辞めたって、誰もなにも言わなかった。

私が知慧のために使ったお金や時間、体力は、結局、彼に向いていることなんてこの世に何一つ存在しないということを理解するためだけに使われたのだった。

===

「賢美(たかみ)、今からでも働き始めたら?」こともなげに久美子は言い吐くと、アイスコーヒーをずっと吸い上げる。ストローに残った口紅は鮮烈なピンク色で、見ていると不意に全身の力が抜けそうになる。深く腰をかけ直すと、ゆっくりとマスクを外す。

「働くったってねえ」外したマスクにつくファンデーションがみょうに汚らしい。「今からだと、正社員でなんてどこも雇ってくれないでしょ、四十代のおばさんなんて」

そう返すと、久美子は「ええ」と妙な音を出す。「正社員なんて言ってないよ、パートでもなんでも」「ああ」「働けばってこと」「うん」久美子がこうやって、バカにしたような言葉遣いをするのは昔から変わらない。

ドトールは混み合っていて、連日の報道なんてまるで誰も知らないみたいだ。でも、こういう無秩序な人の波に、私はみょうな安らぎを覚える。

人ってそうだ、みんな同じに動くものだ。夏に外を歩くとなればカフェで涼みたくなるし、そういうときカフェが開いていたら入る。そういう分かりやすさの中に自分も存在することが嬉しい。

申し訳程度に間隔の空いたテーブル席の一つを占領しながら、大学生と思わしき男の子が眠りこけていた。だらしなく口を開けたその顔の下で、分厚い本が押し潰される。

このへんの大学に通っているとしたら、それなりに受験勉強をしたのだろう。知慧はきっと、この男の子の通っている大学には合格ができない。あまりに厳然たる事実にひゅっと息が詰まる。

私の動揺に久美子は気づかない。ストローでがらがらと氷をかきまぜると、溌剌と喉を動かす。「だってさあ、賢美さ、そんなチーくんのことでいっぱいいっぱいになっちゃうのはさ、やっぱ暇っていうかさ、介護も終わっていきなり時間ができたからなんじゃないの」そう言って笑った。前歯と前歯の間が黒ずんでいる。

私は小さく眉をひそめて返す、「っていうか、なんていうのかな。本当に腹が立つんだよ。なーんも言わないんだよ。ずーっと部屋閉じこもってんの、部活も行ってないみたいだし友達と遊んだりもしないし、そんなに可愛げがないなら私の作ったご飯食べないでとか思う」

「すぐ帰ってくるのはこの時期だし仕方ないでしょ」「まあそうだけど」「ご飯も食べて欲しくないなら、作ってねって言えばいいじゃん、高二なら作れるって」「無理だよー、どうせ言っても作んない」

「賢美が働きだしたら、嫌でも作って食べてねってなるよ、我が家そうだし」「いやー、どうかなー。うちのは本当にダメなんだよそういうの」「そうかなあ」

久美子の会話はいつでもやんわりとした否定と、愚にもつかないアドバイスに終始する。高校で同級生だった二十年前からずっとこうだ。ときどき本当にゲンナリしてしまう。

軽くパーマさせた黒髪を鬱陶しそうに払いのけながら、彼女は続けた。

「だってチーくんの反抗期、可愛いもんだよ。壁に穴開けたりしないんでしょ?」「壁に穴って! そんなんしたら警察呼ぶって」「うち一回開けたよ」「え、リクくんが?」「いやいや、マヤ」「マヤちゃんそんなアグレッシブなの? イメージと違うわ」「今は落ち着いたよねー。でも中二の時ほんとに荒れててひどかった」

「そういうとき叱る?」「うん。一応叱った。でもあの頃のマヤって何言っても聞いてなかったから、多分全然響いてなかったとは思う。壁直すのに修理代三万円したから、半年ぐらいお小遣いゼロにしたけど」「そりゃそうだわ」

きょう久美子を呼び出してしまったのは、知慧が猥雑な本を読んでいることを相談したかったからだ。

インターネットで調べるうち、どうやら、問い詰めたり、本を捨てたりするのはよくない、ということは分かったのだが、かといって自分の中に生まれた彼に対する新たな嫌悪感を捨て去ることがすぐにできるとも思わない。

すでに大学生の息子がいる久美子なら、何か建設的なアドバイスをしてくれるだろうと思ったのだ。

久美子の自信に満ち満ちたその顔を見れば見るほど、そんな馬鹿みたいなことを考えてしまった自分が本当に嫌になる。言えるわけがない。

どうせ久美子は、「気にしなければいいじゃん」だの「そもそもなんでチーくんの部屋の本棚なんて見たの?」だの、私を愚かな母親として断定するための質問やアドバイスを繰り出してくるに決まっている。

胸の内に抱えた汚らしい私の思いが外に漏れ出さないように、本当に細心の注意を払って生きてきた。今さらたかがエロ本ぐらいで、その努力を無駄にしたくはない。

ぼんやりしている私に向かって、久美子は再び喋り出す。「あのさ賢美さ、私の家出てすぐに大きい通りあるじゃん」「ニュータウン通り?」「そうそう。あそこにお花屋さんあるの知ってる?」「あ、フルールなんとか?」「じゃなくてもう一個あるんだけど」「えーどこだろ」「デニーズとかあるちょっと手前」「ああー、あの表にサボテンいっぱい置いてあるとこ」

「そうそうそう。あそこ時々行くんだけどさ、こないだ店長さんがアルバイト募集してて、いい人いたら紹介してくださいって言ってたのね。賢美、どうかなって思って」「うーん」

久美子は私が働きさえすればあらゆる心の不調を直すはずだと何故だか確信しているらしい。「いつも思ってたけど、賢美、ほんとに働くの向いてると思う。育児とか介護とかなかったらめちゃ稼いでると思うもん。なんていうの、バリキャリみたいなさー。そういうやつ」

矢継ぎ早に喋ると、ふたたびアイスコーヒーをすすり始めた。唇から剥げ落ちたリップが再び唇にくっつき、彼女の顔の下半分に不完全ないろどりを添える。

私は苦笑する。「いや、うーん、どうかな。二十年近く働いてないもん、働いたって迷惑かけるだけだよ」「大丈夫大丈夫、アルバイトっていっても、店長さんが納品行ってるときとかの店番とかだと思う。いてくれたらいいだけって言ってたし」「うーん」

知慧にイライラしているのはずっと昔からだ、とは言えない。小学生の頃からずっとそうだから、今更働き始めたくらいのことで彼に対する感情が変わることはないのだ。そういうことが彼女には分からない。

「私は働いたら結構、育児も楽になったからさ。三人育てながらだとちょっと大変だったけど」

久美子は六年ほど前、フルタイムの正社員として働き出した。ちょっと頑張って資格とったら、案外採用されちゃったんだよね、と笑う彼女の顔はひたすらに自慢げで、本当に不愉快だった。

たった一人を産んだだけですぐに専業主婦になってしまった自分が、とんでもなく弱い人間のように思えて、だから久美子と喋るのはしんどい。

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知慧が夕食を済ませたリビングは、私以外の誰もいない。夫からは、きょうも残業をする、という連絡が入っていた。

こんなご時世でも仕事量が増える彼の職種に感謝するべきなのか、それとも、こんなご時世ですら家族のことを考えてくれない彼に腹を立てるべきなのか、自分の感情のやり場所がいつでもよく分からない。

冷蔵庫から冷えたジンジャーエールを取り出すと、グッと飲み起こす。炭酸が喉の奥でパタパタと弾ける、眉間にシワが寄った。スマートフォンの待ち受け画面をぼんやり目に映すと、そこには一歳だった頃の知慧が笑っている。この頃は本当に可愛かった。

*

産後すぐ、病院で哺乳瓶からミルクを飲む彼をみながら、彼の頭の形があまりにも綺麗なことを密かに私は喜んでいた。頭の形だけなら、誰に見せても自慢できる。久美子の家の子供たちよりずっと綺麗ではないか。

私は何枚も何枚も彼の頭の写真を撮り、うっとりと眺め続けた。

二歳になってすぐのこともよく覚えている。

ようやく会いにきてくれた実母の前で、彼はいきなりでんぐり返りをしたのだ。母と二人で驚いて拍手をし、何度でも褒めちぎると、まんざらでもないような顔でもう一度ぐるりと回る。

「この子は人よりも運動神経がいいのかもしれない」、はしゃぐ母を見ながら私はとても誇らしかった。「そうかも」「旦那さんの遺伝子がいいんだね、あんたは運動まるでダメだったから」「あはは」

*

彼が人よりもずっと優れていてほしいと思っていた。そういう願望を持てば持つほど、知慧の能力の低さが悲しくなった。世の中の母親の多くは我が子に対して「生きていてくれればそれでいい」と思うらしい、どうやったらそんな境地に達することができるんだろうか。

というよりそもそも母親というのは子供に対して、人より優れていてほしいなんて感情は持たないものなんだろうか。

知慧が優秀に生まれてくれていればよかったのに。それだけでよかったのに、そうしたら、こんな苛立ちも葛藤も持たずに済んだ。

は、とため息をつくと、もう一度ジンジャーエールを飲む。気泡はすっかり消え、ジュウという音だけが舌先に残って消えた。

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ドアの開く音がする。廊下を見ると、知慧が部屋から出てくるところだった。「あれ」私が声を出すと、彼はこちらを見る。「何」と私は言うのだが、彼は何も言わない。

その顔を見ただけで、彼が何かいつもと違うことを言おうとしているのが分かった。

「どうしたの」つとめて普段通りの声を出そうとする。「ああ」彼は答えると、落ち着かなさそうに時計を見る。「うん?」私はスマートフォンから少しだけ目を上げ、彼を視界にいれてやる。「なに」「あのさ」「うん?」「進路」「うん?」「大学行きたい」

今度ははっきりと彼を見る。「え」

思考がざらざらと乱されていく。「そうなの」「うん」「そうなの」言いながら、私は口座に残っている貯金額を考える。

てっきり就職をすると思っていた、まさか進学したがるなんて。どれぐらいお金を使うことになるんだろうか。介護で悲しいぐらいに減った我が家の貯金が、またさらに減ることになる。

「専攻は?」「分かんない。文系」「何勉強したいの」「分かんない」「どこ行きたいとか、決まってんの?」「分かんない、ニッコマとかあのへんとか、狙えたらだけど」「ニッコマ?」「日東駒専」「何?」「大学の、ちょっといいとこみたいな」「ああ」「なんで?」「なんでってなんか、みんなわりと、大学行くって言ってて、俺も行きたいから」「そうなんだ」

たった一言、「応援してる」とか、「お金のことは心配しないで」と言えたらいいだけなのに、胸の中はひどくつっかえていて、うまく言葉にならない。

ようやく何かを言えるようになるまで、たっぷり十秒はかかった。「まあ、行けばいいんじゃない」私は声を投じる、まともな母親であろうと辛抱強く心のうちの震えを隠す。

「でも、我が家余裕ないからさ、奨学金取ってもらうかもしんないからね」「ああ、うん、それはもともと、そうするつもりだった」彼の愚鈍そうな低い声が、湿気とともに私の耳にまとわりつく。

「まあでも今夜お父さんに話しなよ」

その瞬間、わずかに彼の顔が不機嫌そうにつぶれたのが分かった。「だって、お父さんがお金出すわけだから」取り繕うようにそう続けると、「ああ」と彼は言った。「お父さんきょう帰り遅いから、明日とか」「ああ」言いながら、彼はすでに自室へと歩き出している。

「お母さんだけじゃ決められないから、ちゃんと自分で話しなよ」そういう言葉は聞きたくなかったらしい、扉が静かに閉まる音がした。

*

知慧、大学行きたいらしいよ。そう夫にLINEを送ると、十秒もしないうちに既読がつく。スマートフォンを見るほど暇ならさっさと帰ってきてくれればいいのに。しばらくして、彼から返信がきた。「知ってるよ」

は、と目を止める。それから、猛烈な勢いでテキストを入力する、「知ってるって何?」送信。返信はわるびれもなく即座に届いた。「半年くらい前から相談されてた。東京の大学行きたいらしい。いいんじゃないって言ってるよ。どれぐらいまでならお金出せるとかも話してある」

私の視界はパチパチと弾ける。「なんで二人で決めちゃう? お金とか、私にも相談してくれないと」送信。「いや、男同士の話ってあるでしょう、女親には言いづらいことっていうか」「ならこっそり私に相談してくれたらよかったのに」「だから知慧が話したでしょ?」

まるで私が不必要であるかのように振る舞うのをやめて。

そう入力してから、文面を丸ごと削除する。「家族の中で私を悪役にするのをやめて」、削除。「私は家族のメンバーじゃないみたいな振る舞いをしないで」、削除。

結局なにが正解か分からないまま、とにかく「そうなんだ」とだけ返す。即座に脈絡のない犬のスタンプが送られてきて、会話は唐突に終わってしまった。

*

吐きそう。

こんなことばっかりだ。

知慧の将来について、一番に考えてきたのは私なのに。新生児の頃、夜中じゅうずっと泣きわめく知慧を必死にあやしていた夜も、彼が私を大嫌いだと言ったあの日も、習い事を辞めたいという話を聞き続けたときも、九九を一緒に覚えたあの一ヶ月も、高校の願書をもらって回ったのも、全てそれは私の仕事だった。

それがどんなに大変なことだったか、知慧も夫も知らない。知らないのに、結局こうやって、私のことは存在しないみたいに、彼らは人生のことを決めてしまう。

あらゆる怒りや悲しみを耐えきって、自分のための欲望を切り捨てて、人生を再起不能なまでにめちゃくちゃにして、それで得られたものがこんな家族なのか。

そもそも私は、妊娠する予定なんて全くなかったのだ。

妊娠検査薬に入った赤い筋を見た瞬間、現実が受け入れられずに泣いた。私は二十七歳で、仕事が本当に面白いと思い始めたばかりだった。

あまりにもつわりが酷すぎて、電車に乗れなくなったとき、在宅勤務にできないか、と会社に掛け合う私を見ながら、夫は笑顔で「お腹の子の命を考えたら、辞めるしかないよ」と言った。

結局わたしは辞めるしかなかった。そうしなければ頭のおかしい女だと思われただろう。

こうやって終わっていくのだろうか私は。誰からもほんのりと拒絶をされたまま死んでいくのだろうか。じゃあ私は、何のために生まれてきたんだろうか。

===

「知慧」

知慧の部屋のドアをノックすると、「何」と返答がくる。扉を開けると、ヘッドセットをした知慧がパソコンを閉じるのが見えた。慌てたような手付き。「何見てたの」「別に。何?」

やっぱりこの部屋は臭い。口で息を吸い込むと、なるべく平坦な口調で語りかける。「お父さんにさ、もうなんか、話つけてたの」「あー」

「全部二人で決めちゃう前に、お母さんにもなんか言ってくれたら良かったなって」「あー」「お母さんも、知慧がどうしたいのかっていつも気になってるんだよ?」

知慧は神経質そうに足を揺らす。三ヶ月前に買ったばかりのヘッドセットは、この部屋には不釣り合いなほど白くまぶしい。

「あー」、と知慧はもう一度言うと、息を吐き出すかのような小さな声で、「っていうか、なんか、反対されそうだと思ったから」と言った。

私の内側からぞうぞうとせりあがってくる言葉たちが私の奥歯をしっかりととらまえて離してくれない。ふと窓に目をやる、外はすでに真っ暗だ。「そーんな」私は無理に笑う。「そんなことなかったでしょ」「まあ、そうだったけど」「そんなことないのに」

彼の本棚にはいつ買ったのか分からないような漫画がひたすら並べられている。「知慧って高校、楽しい?」「は? 何?」「なんとなく、そういう話あんまりしてこなかったなって思って」「普通だけど」「そうなんだ」机の上にはなぜか陰毛が落ちており、椅子にはだらしなく制服のベルトがかけられていた。

こんな子供のために、私のことをつゆほども信頼していないこの子供のために。

私は口を開く。なんと言えば、今のこの自分の気持ちが少しでも彼に伝わるのか考える。「お母さん、じゃあ、パート始めるよ」「え? うん」「なんか予備校代とかさ、結構かかると思うから」「はあ」「うち、おばあちゃんの介護でさ、お金ないから」「ああ」

分かる? あなたのせいで、お母さんは、せっかく介護も終わって一息つけるこのタイミングに、パートなんか始めないといけなくなるんだよ。悪いと思わない? 悪いと思うよね。悪いと思ってね。

そういうことを汲み取ってくれるような察しのいい知慧ではない。でも構わない、私はともかく、彼のためにまた犠牲を払うのだ。いぶかしげな彼の顔に、私はそのまま言葉を投げつける。「まあ、だから、ご飯とか、これからちょっと適当になるかもだからね」「ああ」

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部屋のドアを閉じると、ほとんど発作的にLINEを開いた。久美子とのトークを開くと、テキストを入力する。「花屋の仕事、今も紹介してもらえる?」送信するとすぐに既読がついた。スタンプが送られてくる、笑っている少女の顔。

「聞いてみるね~、多分ぜんぜん募集してると思う」「私、言ったけど、全然できることないし、あんまり役に立てるか分かんないんだけど」三十秒もせずに返信がくる。「いや、とにかくいてくれるだけで良いみたいな感じなんだから大丈夫だって」

止めていた息をぱっと吐き出す。次に吸うべき空気がどこにあるのか分からず私の口腔が一瞬をさまよった。

「じゃあ、よろしくお願いします」久美子にそう返信してスマホを閉じると、カーテンを閉じるために窓へと向かう。

一歩進むごとに、だるくなった体全体がじんと揺れるのを感じた。

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小説の講座を今月から受けるので、それ用に書いたものを若干手直しした。