【短編小説】8月31日の私を、リエさんはぜんぜん知らないでしょ

リエさんと知り合ったのは私が自殺でもしようかなと思いながら公園でブランコに乗ってるときだった。

中学生ってまあまあ何してても補導されるみたいなところがあって、だって昼間に歩いてもダメだし夜に歩いてもダメだし。結局、家か学校か塾か習い事の場所か友達の家かのどこかに、ちゃんと時間守って存在していてくださいねって感じなんだよね。それは私だって分かってる。

でもさ、学校で一回「ヤバい女」って認定されたらもうダメなんだよ。どこに行ってもクラスの人か学校の人いるし。そろばんのときだけは摩耶と喋れて楽しかったけど、広瀬さんが入会したから無理になった。「岡田さん、めっちゃ喋るじゃん」って引き気味の広瀬さんの顔思い出すたび死にたくなる。

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リエさんは茶髪だし、多分パーマをかけてる。「迷子?」って私に聞いてきたとき、なんか、人工! フローラル! みたいな匂いがブワーッと香ってきて、くさいなとちょっと思った。っていうかなんか頭痛くなるなっていうか。

「迷子じゃないです」「そうなんだ」リエさんはそう言うと、隣のブランコに座った。それから私のほうを見もせずに「私は迷子」と言う。「えっ」「人生の」

あ、ヤバい人だ、って一発で分かった。っていうか、中学生に話しかけちゃうような大人はみんなヤバい。

どうやって逃げ出せばいいのか考えながら、私は相槌を打つ。そおなんですねええ。リエさんは私の警戒心には全然無頓着のまま続けた。「彼氏がさー、私のことさー、重いから嫌いなんだって」「あー、はあい」「で、別れるかもってなってる」「そおなんですねー」

そうなんですね、っていう相槌は、最近、お母さんと亀戸のアトレに行った時に覚えた。ハニーズの店員さんがお母さんにひたすら「そうなんですねー」って言ってた、らしい。私は話とか聞いてなくてよく知らない。お母さんは帰り道に「あの人、全然私の話聞いてなかったよね?」と私に言ってきた。「そうなんですねー以外、なーんにも言わなかったもん」

どーでもいいから、お店でいっぱい喋るのやめてよ、と私は返す。お母さんはそういう私の言葉も気に触ったみたいで、そのあと一日中、なんにも言わないで黙っていた。

ってか、アトレで広瀬さんとかに遭遇しなかったの奇跡だなって思う。お母さんは私がぼっちの陰キャだってこと知らないから、ほんとに良かった。

お母さん、私がクラスの人みんなから嫌われてるって知ったらなんて言うんだろう。また育て方間違えたとか言うんだろうか。ウマナキャヨカッターとか。

どうだろ。

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名前なんていうの。リエさんは思い出したように私にそう尋ねてきた。「名前」「あ、言いたくなかったらいいけど」「あ、あのー、光莉です」「えー、いいなー、かわいー名前」「どうも」「漢字は?」「あのー、普通に光、のあとに、ジャスミンの莉です」「ジャスミン?」「っていう植物」「へー」「っていうか、くさかんむりに、利益の利」「え、待って待って」

リエさんはスマートフォンを取り出すと、「ジャ、ス、ミ、ン」と言いながら何事か入力している。「変換で出ないよー」見せてきたスマートフォンには、Twitterの投稿画面がうつっていた。じゃすみん、という文字が整然と並べられている。「あ、マツリカって打つと出ます」「へ?」「ジャスミンの、なんか、和名」「ワメイって何? あ、和風の名前」「はい」「へー。あ、ほんとだー」

スマートフォンをポケットにしまうと、リエさんはこちらを再び見つめてくる。「あのさ、そしたらさ、光莉ちゃんって呼んでいい?」「え、いや、遠慮しときます」「え? あ、そういう答え方アリなんだ」リエさんは笑う。それから、「私はねえ、リエって言うんだあ」と、別に聞いてもいないのに教えてくれた。

漢字はね、恵まれた梨。超普通でしょ。「恵まれた梨って」私は思わず笑う。「えー、だってそうじゃない? っていうかそうなんだよ。恵まれた梨」「おもしろ」「てか光莉ちゃん、バチェラー見てた?」「え?」「バチェラー」

あ、光莉ちゃんって呼ばれた、と気付いたときには、リエさんはもう喋り始めている。「なんかAmazonプライムでやってるやつ」「うち、Amazonプライム、会員じゃないです」「えー、薔薇持っててさー、結婚相手決めるやつ」「あー」「知ってる?」「知ってる、CM見たことある」「なんかそれをね、彼氏と一緒に見てたの」「はい」「そしたらなんかね、鶴さんって人がいてね、鶴さんはすごいのね、嫉妬の女みたいな感じで。鶴さんをね、どう思うかみたいな話になって、私はすごい鶴さん好きなんだけどさ、彼氏はもう鶴さん全然無理らしくて、それでなんかすごい喧嘩になっちゃった」「くだらなすぎませんか」「いやほんとそれな」

私すごいさー、重いのよ、嫉妬とかするからさあ、ダメなんだよねえ、歴代の彼氏みーんな重いって言われてフラれてる。「意味わかんないよねえ」と呟いたリエさんの横顔は、ニキビが一つもない。

そおなんですねえ。相槌を打ちながら、彼女の肌をじっと見つめた。

ニキビがない顔を生きるってどういう感じなんだろう。ニキビがなければ私だって松尾くんから「ブツブツ」とかって呼ばれたりしなかったし、もうちょっと、陽キャとまではいかなくても、普通に、なんだろ、広瀬さんにビクビクしないで喋れるぐらいのキャラで生きていけたような気がする。

リエさんは多分すごい頭が悪いんだろうな、と思った。自分の持ってる財産をちゃんと使えない人は馬鹿だ、っていうのはお母さんがいつも言ってることで、だからリエさんは馬鹿なのだ。

「どうしたら重い女やめられるのかなー」リエさんが独り言みたいにいうので、「趣味とか、作ったらいいんじゃないですか」と私は答える。こちらを見るその目元には泣きボクロがあった。泣きボクロって本当に実在するんだ。「光莉ちゃん、いくつ?」「14歳です」「めっちゃ真理知ってるね」「はあ」17時を知らせる放送が鳴るのが、遠くのほうで聞こえた。

「もう帰るんで」

立ち上がると、えーそうなんだ、とリエさんは不満そうな声をあげる。「じゃあさー、光莉ちゃんさー、LINE教えてよー」

リエさんはそういって甘えたような声を出す。年上の女の人がそういう弱そうな声を出すのが本当に怖くて、私はなんとなく逆らうことができなかった。

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あした遊ぼうよ、とリエさんからLINEがきたのはそれから3日後だった。「塾の前とかなら」「塾いつから?」「5時です」「おーけーおーけー」

リエさんは自転車でやってきた。湿気にまざって、例の、フローラル、みたいなにおいが漂ってきて、一瞬吐きそうになる。「自転車」私が言うと、「何?」とリエさんは怪訝な顔をする。「大人ってみんな車乗るものなんだと思ってた、思ってました」「見てる世界の範囲せまー」

リエさんの自転車にはピンク色で、カゴがついていない。「カゴ、取っちゃったんですか?」「カゴって何?」「自転車の」「あー、これもともと付いてないやつ」「不便そう」「うん。まあまあ不便」

でも可愛くない? リエさんが車体を見せてくるので、わざと顔を背けた。「ピンク嫌い」「えー、めっちゃ可愛いのに」「てか、ピンクって小学生の色でしょ」「でもコーラルピンクだし」「一緒」「一緒じゃないし」

早足で歩きながら、この姿が誰かに見つかったらどうしよう、と思う。親戚のお姉ちゃん、とか言えばいいのかな。いや、でもそれ嘘ってバレたらどうしよう。死ぬほど恥ずかしい。あーだからやっぱり、なんで車で来てくれなかったんだろ。いや、でも車できてたらもっとダメか、知らない人の車とか乗ったらダメか。

「リエさんは」名前で呼んじゃった、と思うんだけど、リエさんは「はい?」と気の抜けた返事をする。「免許持ってないんですか車の」「持ってるけどー。免許とってから一回も運転したことない」「意味ない」「言えてる」

どうしようかあ、何して遊ぼうか。リエさんは自転車を両手で押しながらそう言う。「ていうか、私カバン重いんですけど、きょう塾3教科あるから」私がそう言うと、リエさんはすぐに「ごめん」と言った。「どっか喫茶店入る? このへんなら星乃珈琲とか」「何それ」「星乃珈琲行ったことないの?」「ない。です」「すっごいおっきいフワフワのパンケーキ食べられるよ、食べたくない?」「えー」「おごるよ」

カバンに入っているおにぎりのことを考える。お母さんが炊いておいてくれたご飯を、さっき自分で握ってきたのだ。「いや、うーん」でも、パンケーキなんて多分私のお小遣いじゃ絶対食べられない。バレないかな。バレなかったらいいのかな。でも、バレたらどうしよう?

「行こ、アムウェイとか売らないから」「アムウェイ?」「知らないか」リエさんはすでに歩き出している。「ねえ」私は少しだけ歩みを早くする。

なんとなく、誇らしいような気もした。知らない女の人と星乃珈琲店のパンケーキを食べた経験があるクラスメイトなんて、ほとんどいない、ような気がする、から。

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リエさんがフォークとナイフで器用にパンケーキを分解していくのを見ながら、私もそれを慎重に真似する。ナイフを右手に持つリエさんのやりかたを信じていいのか、よく分からないけど。「リエさんさ、なんで私に話しかけてきたの?」

聞きながら、ナイフで切ったパンケーキをフォークで口に放り込む。黒蜜シロップが染み込んでぐじゅぐじゅだ。「甘」「甘いよねー。推せるー。えー、話しかけた理由はねー、なんかねー、光莉ちゃんに、私と似た空気を感じたから」「何それ」「陰キャっぽいってかー」

ああー、と私は言う。「リエさんべつに陰キャじゃないじゃん」「陰キャだよー、友達全然いないし」「何人いる?」「えー、どうだろ、絶対友達って言えるのは二人」「少な」「うん」

リエさんは別にその話を広げたいわけじゃなかったらしくて、この間と同じように彼氏の話を始める。彼氏ね、あれから連絡して会えたんだけど、会ったら会ったでまたイライラしちゃってさー。でさあ彼氏にさ、Tinderまた始めた? って聞いたら、始めたよとか言ってんの。「リンダーって何?」「ティンダーだよ、出会い系アプリ」「キモ」「ねー」

私はまた時計を見る。お母さんにバレたらどうしよう。多分、死ぬほど怒られる。この時間にここ来ることないと思うけど、でも、絶対そうとは言えない。もし来たらどうしよう。

私が落ち着かない様子なのを見てとったのか、リエさんは「まあまあ」といなすような声をあげる。「塾、何時くらいにここ出たら間に合う?」「えー、4時、多分40分とか」「おっけー、まだまだ全然余裕じゃん」「うん」「1時間半ぐらいある」「うん」

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リエさんは本当に自分の話だけをして1時間ぐらいを過ごした。私の話を挟む余地は全然なかった。「いろいろ話したらすっきりしてきたわ」リエさんはそう言いながら、変なにおいの漂ってくるコーヒーをすする。「もうね、彼氏とは別れる。うん。別れる。あいつはね、もうね、クソ! クソですわ!」

リエさんは本当に友達がいないんだろうな、と思う。私ならこんな話、知らない中学生に延々話したりしない。「そっかー、別れるんだ」私が適当な相槌を打つと、リエさんは「うん」とだけ言う。

しばらくぼうっとしたあと、リエさんは急に「光莉ちゃんはー、」と声をあげた。

「最近、どう」「えっ」「私ばっかり喋っちゃったから。光莉ちゃんはどうなの」「ええ、知りません」紙ナプキンが水を吸ってぺったりと平らになっているのを指先でいじりながら、「知りません」ともう一度言った。

「光莉ちゃんってさあ、あれ、なんか将来の夢とかないの」「ないです」「高校どうするの?」「高校、行きたくないから、ってかもう、中学とか、行かずに働きたい」

言いながらもう、変なことを言ってしまったと後悔している。

リエさんは「えー何それ」と言うと、コーヒーカップをまた口元に寄せた。「中学生が働いたら、違法じゃない? 知らないけど」「それは知ってる」「なんで? 学校辞めたいの?」「うん」「転校は?」「できない」「中卒で働くの大変じゃない?」「リエさんは」「私、大学生だし」「ああ」

光莉ちゃんはさあ。リエさんはそう言ったあと、一瞬何かを考えるように黙る。「光莉ちゃんはさ、学校、嫌い?」

嫌いだよ。私は即答する。「なんで?」「別に。なんか、嫌われてるから」「そうなんだ」「みんなに」「そうなんだ」

変な空気だ。こんな話広げてくれなくてもいいのに。とっくの昔に食べ切ってしまったパンケーキが喉にベタベタ甘くて、お水のおかわりが欲しいと思った。店員さんはずっとレジのあたりにいて、一向に来る気配がない。

リエさんはパンケーキを一口食べてから、「でもまあ、気持ちは分かるよ」そう言って、もう一口を口に入れる。「私も、光莉ちゃんぐらいの頃、ほんとに毎日死にたかったから」そう言って笑った。「ほら、これ見て」リエさんが袖をめくりあげると、彼女の腕には無数の白い線が入っている。

「腕とかめっちゃ切ってた」

なんだかそのとき、ああそういうことか、と妙に全てのことが腑に落ちる。腑に落ちて、それから、全部が本当につまんないなって、そういうことがいきなり分かる。時間を確認する。16時25分。ちょっと早いけど、そろそろ塾に向かってもいい頃だ。

「いじめ?」「うーん、分かんない」「今は?」「今は全然切らない」

そう言いながら、リエさんはなんだか笑ったような顔で手首を撫でた。

「だからさあ」とリエさんが言った瞬間に彼女のスマートフォンがブ、と震える。驚くほどの速さで通知を確認するその手つきが妙にみっともない、お母さんみたいだ、とちょっと思った。何がどうお母さんみたいなのかはよく分かんないんだけど。

「だからね」スマートフォンを置くと、リエさんは再び続けた。「光莉ちゃんもさあ、今はしんどい時期だけど、私も辛い気持ちとかすごい分かるから。逃げてもいいから。高校とか全然違うとこ行ったら、またいろいろ見える世界とか変わってくるし」

リエさんはペラペラ喋り続ける。彼女の皿の上で切り刻まれたままのスフレパンケーキが静かに冷えていくのを見ながら、「塾あるんで」といつ言おうか、その最適なタイミングを私は見計っていた。

ニキビの一つもない顔にはファンデーションが塗られている。マスクのせいなのか、鼻のあたりだけ剥げて赤くなっているのが見えた。

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塾につくと、スマホを開いて、リエさんのLINEをブロックする。英語の問題集を取り出すと、きょう習うであろう場所をゆっくりと指でなぞった。Is she happy? No, she is not happy, she is sad. She has lost her favorite toy. このhas何?

そのうちクラスの人がやってくる。あと1分もしないうちにきっとくる。死にたいだけの3時間を耐えて、そしたらまた家に帰れる、帰ってすぐ寝る。

死んじゃいたいとなんとなく思う。なんで死んじゃいけないんだっけ。てか死んでもいいとして死ねるのか? って話だけどさ。

別に上から目線で同情してもらいたかったわけじゃない。「あなたの気持ち分かる」とか言われたかったわけじゃない。私はただ、毎日がゆっくりゆっくりゆっくりゆっくり過ぎていく、そのスピードに耐えられないっていう、ただそれだけなのだ。

なんだかよく知らない女の人が、自分よりも恵まれていない人を助けてあげたいって思った。その女の人が発見した「恵まれてない女の子」は私だった。ただそれだけ。

そういうなんか感動ドラマの脇役になっちゃった自分が、本当に惨めでつらい。

マスク越しに小鼻を小指で引っ掻いた瞬間、教室のドアが開く。「うわブツブツいるじゃん」と、松尾くんが笑う声が聞こえた。

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こないだ書いた小説の登場人物が好きだったので。