「日本には四季があるのでえらい」というような空虚なえらぶりがあるが、四季を感じられるというのはつまり、家がクソさぶいということではないか。こたつにもぐって「寒の戻りだねえ」と叫びながらそういうふうに思う。
もしも将来日本で家を買うことがあったら、断熱性のすぐれた家をつくることで二十四節気を忘れ去りたい。
全然関係ないが、昔から不思議なこと。「日本には四季がある(他の国にはない)」と言っている人は、「春夏秋冬に対応する言葉がわりとあらゆる言語に存在する」という現象に対して、なぜパニックにおちいらないのだろうか。
昨日も、息子と元気に散歩。さむすぎたので、外はあんまり歩かず、スーパーで惣菜などを見て1日過ごした。まるで定年退職して2ヶ月目の、やることが全く思いつかないおじいちゃんのようである。
息子はスーパーにおいてあった電子ピアノに強い興味を示していた。というか、カナダの家にはピアノがあって、しょっちゅう弾いていたので、「そういえばピアノないな」と思い出したのだろう。家に帰っても「ねえピアノはどこ?」と聞いてきた。買うかあ・・・。
徒歩圏内に七つほどピアノ教室があるので(ありすぎ)、もしも息子が習いたいようならピアノを習わせてもよいかもしれない。
徒歩圏内に七つほどピアノ教室があるの、書いていて我ながらおもしろいな。音大出身者はこの地域に住みがちなのだろうか。にしても競合がおおすぎる。生徒をえるために独自性とかを出したほうがよいのではないか。「J-popの耳コピに特化したコースを展開!」とか。ふふふ。
散歩中に本屋さんに寄り、私は雑誌を買い漁る。男性向けのカッコいい広告デザインを探していた(仕事で参考にしたくて)。
まだ全然研究していないのでなんともいえないのだが、雑誌の広告ってなんか文字のあしらいとかが控えめな感じがする。雑誌の本文は結構ゴリゴリなんだけど。やっぱりwebの広告とは作り方が違うのかな。
息子は本屋にて「すみっコぐらしのぬいぐるみが作れるキットを絶対買いたいboy」に変貌。私はそれを承けて、「こういうキットが2000円って高いのか安いのかよく分かんないな、まああえて言うなら"妥当"だな・・・とボンヤリ考えつつ買い与える親」に変貌。
帰宅し、一緒にぬいぐるみを作っていたのだが、「200本ぐらいある毛糸の一本一本をいい感じに割いてフワフワにさせる」という信じられないぐらい根気が必要な作業を要請され、ちょっとビビってしまった。すみっコぐらしはいつも若干ハードボイルド。
一個作ったところで飽きたので、仕事をおえた夫に「やって」と丸投げ。
2時間ほどして見にいくと、夫はフワッフワのかわいいぬいぐるみを手にもっていた。
先週末から、仕事では、雑誌の広告を作っている。
だいたいこんなもんかな〜というのができてきたので、印刷して夫に見せたら、「すご〜い、本物の広告みた〜い」とキャッキャしてくれた。「こだわりポイントはどこなの〜」と聞いてくれて、夫はきちんと私の扱いを心得ている。
昔は1枚の広告つくるのだけでものすごい時間がかかっていたなあ、と思う。あと、頭をいっぱい使うから大変だなあ、と、なんとなく苦手意識があった。
今は「デザインの仕事はいっぱいこだわれるから嬉しいなあ」と思う。捉え方がかわった。昔のまま、ずっと苦しいだけだったら結構大変だったと思うから、こういう状態になってよかったなあ。
今年はもっとゴリゴリ新しい知識を得ていきたい。
なんでもそうだと思うけど、「だいたい基本の構造は学んで、あとはポツポツと新しい知識を身につけていくだけ」みたいな状態に到達した分野は、学び続けるのがものすごく楽しい。
学ぶっていってもなんかそれは「へえ〜そうなんだねえ〜」という感じに留まるというか。今までの応用で考えればそりゃそうだよなあ、みたいな。気づきの一種みたいな。あんまり脳に負担がかからない感じがする。
一方で、ゼロから新しいことを学ぶのは、それがどんなにやさしいと世間的にはいわれていることであっても、やっぱりそれなりに大変。人生たまにはそういうことにチャレンジしたいものだけどね。
藤井風が「免許の筆記試験がムズい」みたいなことを昔Twitterで言っていたのを思い出す。あんなにかしこい天才でも免許取得はムズいのだ。
関係ないけど、並行世界で生きている藤井風は鳶職とかであってほしいな。こっちの藤井風が音楽家やってるのは本当にギリギリのところであってほしい、わずかな誤差で天才をやっていてほしい。
でも彼は父親が変人だから無理かな。
今週末はむすこの入園式。インターネットによると、親はフォーマルな服を着なければならないらしく、ちょっと面倒だなと思う。子らを愛でる会なのに、親の社会性をためさないでくれ、くそ〜。