子どものいない人生と、「無の努力」について

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子供を持たずに人生を終えたい人の本を読むか、と思って、いろんな本を買った。学んだことをすぐに話してしまう女なので、この記事を書いている。

 

ここまで書いたところで、装着していたワンデーのコンタクトレンズが目の中で破れてしまい、めちゃくちゃな苦闘の末に取り出した。コンタクトって破れるんだな。初体験だった。嫌な事件だったね(いにしえのオタク)。

 

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私の周りでは、わりと、子供いらないよと言っている人のほうが多い。私は「子供いらない」と思ったことが一度もないので、実際のところ彼ら/彼女らがどういう気持ちなのか、というのがよく分からない。子供はいりません、と思うその気持ちが知りたいなあと思っている。

(もしかすると、「子供がほしい」と強烈に思っていた私のほうが特殊なんだろうか・・・)

 

ある本の宣伝文には、

“子どものいない人生”を歩く女性は、いま(原文ママ)6人にひとり

まんが 子どものいない私たちの生き方 ~おひとりさまでも、結婚してても。~ | 森下えみこ, くどうみやこ | マンガ | Kindleストア | Amazon より。2021年5月5日参照、強調は森田)

と書いてある。この本は21年の4月に発行されたので、それなりに新しいデータなのだろう・・・

これ、一次データどこにあるんだろう? 生涯未婚率とは違うよね?(結婚して産まない人も、それなりの数でいるだろうから)。

あとで調べたら、これは国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」で確認することができるみたい。生涯無子率は1965年生まれで 24パーセント、1990年以降生まれでは30パーセント以上と推計されてるんだって。私たちの世代だと、3人に一人ぐらいは産まない人生ということだ。そりゃ産婦人科減るわな。

 

ちなみに、別の調査によると、

 1990 年生まれ世代の女性の4割近くが子どものいない生涯を送るとの推計も出されている

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2009pdf/20091201161.pdf

らしい。

 

というわけで、とにかく現状は6人に一人の女性が、子供を産まない人生を歩むのだと仮定して考えていくぞ。

 

6人に1人って結構多い。日本の人口が1億2000万人ぐらいいるとして、だいたい720万人ぐらいか。下のページによると、埼玉県の人口がだいたい720万人ぐらい。

【ホームメイト】47都道府県別の人口一覧

子供がいない女性だけで埼玉県が作れるということか(?)。

 

この6人に一人という数なんだけど、「2021年の若者たちの意思」は反映されていないよね。

というのは、「子どものいない人生」を歩むかどうかっていうのは、50歳ぐらいじゃないと確定しないから。今の20〜30代とかの「意思」がどうであれ、現実に人生がどうなっていくかは分からない。現実として子どものいない人生を歩みます、ということがあらかた確定したタイミングでしか数は取れないよね。

 

今の50歳以降が生きてた時代と、今の20代とかが生きてる時代は、わりと「子供を持つこと」に対する感覚も違ってきていると思う。それでもこれだけの数の人が子供を持たないんだな。

私たちアラサーが50代になった頃に、この数がどれぐらい変わっているか、かなり気になる。でもそれって20年後なんだよなあ。

 

ちなみに、「卵子は老化するので、35歳を過ぎると妊娠が難しくなる」という知識が一般的なものになったのは2012年のことらしい(NHKスペシャル「産みたいのに産めない~卵子老化の衝撃~」の放送が2012年6月23日)。

 

妊娠や出産は、誰もが無条件にできるものではない、という知識を、アラサーの私たちはなんとなく知識として知っていると思うんだけど、そういう知識がどれぐらい、子供を持つか持たないかという意思決定に影響をもたらすのか。気になるね。

 

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たとえば、2019年に、全国でゴルフをENJOYした人は580万人らしい。

平成31年(2019年)の全国ゴルフ人口は580万人と大幅減-椿ゴルフ

 

これだけゴルフを楽しんでいる人が少なくなってきているのにも関わらず、ちょっと郊外に行くとゴルフ場ってものすごい数あるわけだよな。みんなゴルフってするんだ〜、と、なんとなく思ってしまう。

一方で、「子どものいない女性」っていうのはなんていうのか、いないことになっているというか。実態がどうとかは置いといて、イレギュラーとして扱おうね、という感じの空気を、少なくとも私は感じている。

まあ、この二つは比較できる数どうしではないのだけれども。

 

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私が「子供は欲しくない」と言っている女性に対して、「なぜ?」と思ってしまうのは、第一に、「妊娠・出産はみんなしたいもんでしょ?」という気持ちがあるからなのかもしれない。 

子供がいない女性のためのウンヌン、みたいなものが、もっとカジュアルに開催された社会でも、やっぱり私は「なぜ」と思うんだろうか? いや、やっぱり思いそうだな・・・。

 

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さて。

子供のいない女性の中にも、いろいろ種類がある。強引に分類すると、こういう感じになるのではないか。

 

CANNOT系

・自分の体の機能として、子供が作れない

・夫の体の機能として、子供が作れない(精子とか)

・原因は分からないが、妊娠できなかった

 

タイミングを逃した系

・欲しいか欲しくないか分からないうちに、閉経してしまった

・子供を作るためのパートナーがいなかった

 

他者のありようが気になっている系

・夫が子供を持つことに乗り気ではなかった

・夫が育児のパートナーとして信頼できない

・このろくでもない社会に、子供を生かしたくない

 

自分のありようが気になっている系

・自分の遺伝子を残したくない

・仕事や介護との両立ができないように思う

・自分に母親業がつとまると思えない

 

気持ち系

・「母親」をやっている自分を想像すると気持ちが悪い

・出産が怖い、トラウマがある

・子供が嫌い

・実家がひどかったので、家族とか子供というものに夢を持てない

 

ポジティブ/ニュートラル系

・子供に興味がない

・妊娠や出産に興味がない

・仕事や趣味など、育児以上に集中したい趣味がある

 

多分、もっといろいろある。でも、パッと思いつくのはこういう感じかなあ。

子供がいない、という状態にも、かなりグラデーションがあるし、多分だけど、同じように子供がいない女性どうしで話し合っても、「なんだこいつ、全然気持ちが分からん」って思ってしまう人とかいるんじゃないのかな。

たとえば、子供が嫌いだから産まない、と考えている人と、不妊治療の末に結局、子供のいない人生を歩むことになった人とでは、かなり意識に差がある。

 

それから、「本当は欲しい」「状況が許せば欲しい」みたいな人もいる。

 

CANNOT系の人とかはもちろんそうだろうな、と思うけど、実は、自分のありようが気になっている系の人も、状況が許せば欲しいと思っているかもしれない。

 

たとえば「自分の遺伝子を残したくない人」とかっていうのは、自分的には欲しいような気もするし、体の機能的には問題もなかったけど、もしかしたら子供に迷惑をかけてしまうかもしれない、だから産まない、という人もいるかもしれないわけじゃないですか。

 

そういう人って、本当は欲しいんだよな、みたいな気持ちと、でも子供に迷惑だからな、みたいな気持ちに、どうやって折り合いをつけているんだろうか。

 

迷惑をかけちゃうから、という理由で、自分のやりたいことを制限するのにはかなりのストレスがかかると思う。

さらに、これって、たとえばペドフィルの人が幼児に性的暴行をしないとか、そういうのとは全然質が違うんだよな。ペドフィルの人は、まあ制限をして、ストレスだなあと思って、でも、それでマトモな社会的評価が与えられる=報酬があるからいいじゃん。

 

でも、子供を産まない、という行為は、自分の気持ちにも逆らっている(人もいる)し、社会からも「産んだほうがいいよ」と言われる。全く報酬がないんだよね。得をしているのは赤ちゃんなんだけど、その赤ちゃんは存在していないので、損も得も覚えようがない。無のための、もしくはメンタルをマイナスの方向に持っていくための努力。

でも、自分の遺伝子を受け継ぎたくないとか、この社会は子供が健やかに生きていくのに向いてないとか、そういう悩みっていうのは、解決が難しいし、あと、「産んじゃえばいいじゃん」で解決するものでは決してない。だからやっぱり「産まない」という結論にしかならないけど、それって無への努力なんだ。

 

こういう、「自分的にもやりたくないし、社会からも求められていない頑張り」って、他にあるんだろうか? 

社会からは求められてないけど、自分的にはやりたい頑張り、みたいなのはたくさんあるんだよな。なんか・・・冒険家になるとかさ。

これはわりと世間からはポジティブな感じで受け取られる気がするね。「やりたいことがあるのは少なくともいいことじゃんね」っていうか。

子供欲しくない人の中にはこういうタイプの人もいることだろうと思う。「妊娠や出産に全然興味がない」とか「子供よりも大事なことがある」とか。これはわりと、その人のメンタル的には、大きな引っ掛かりなくいくような気がする。やりたくないことをやらなかったので怒られましたが、まあまあ予想はついていました。みたいな。

外野がうっとうしいのは変わらないと思うけど、それは多分、冒険家になりたい人への世間の風当たりとかと同様なのでは。

 

でも、やりたいことを頑張って我慢しているのに、社会からは怒られます、っていう状況は、かなり不愉快だろうな、と思うんだよね。

無への頑張りはしんどいし、やっている人が少ないから、「王道の納得方法」みたいなものも確立していないのではないか。だとすると結構きっついなあ。どうやって努力したらいいか分からないものね。

 

というところで、4000文字を超えてしまったので、きょうの思考はこのへんで切り上げたいと思います。なんか自分で読み返してもかなり目が滑る・・・。わかりづらい文章を書いてしまってすみません・・・。もうちょっと分かりやすい文章を書きたいものです・・・。