【小説】コントロールのできない人たち

母と子の画像

晴人がリューヘーくんから意地悪をされていると話してくれたのは5月の頭のことだった。リューヘーくんというのは、いつでも前髪が直線の子だ。多分、お母さんが髪を切るから。くじゃく組で初めて一緒になった子で、年中のときはかもめ組さんだった。今年同じクラスになった子で要注意の子供はレオくんだけだと思っていたのに、まさかの伏兵。

「どんな意地悪?」

私はつとめて冷静に尋ねる。台所は流れる水の音でいっぱいだ。

「リューヘーが俺よりもデカいから」

「え?」

「リューヘーが俺よりもデカいから、それで小さくなってほしいから頭をいっぱい抑えてたら、消えろって言われた」

お義母さんから送られてきた枝豆の泥はなかなか取れない。無意識のうちに眉間に皺が寄っていることに気づく。なんでお義母さんって、食べるのに手間がかかる食べ物ばかり送ってくるんだろう。断っても、断っても。送られてきて2日以内に味の感想を言わないと「配送ミスがあったらいけないと思って」なんて電話をかけてくるのも嫌だ。

「ああ」

私は言う。保健センターの人に言われたアドバイスにならって、深呼吸をする。

「それは晴人が悪いでしょ」

そう言って、また枝豆の泥を落とす作業に取り掛かる。

晴人の声がしない、と思って顔を上げると、彼は泣いていた。

「ええ、なに」

真っ赤な顔で大粒の涙をこぼしながら泣いている晴人を見て、慌てて水を止める。蛇口はスパリと、水を流出させるのを止めた。

「なに、晴人」

もう一度尋ねると、晴人は存外にしっかりとした発音でこう言う。

「俺が悪いって言った」

「え?」

「俺が悪くないのに、お母さんが、俺が悪いって言った」

タオルで手を拭くと、晴人のほうへ向かう。

「いや、晴人が悪いでしょ、リューヘーくんも消えろって言ったのはよくなかったかもしれないけど、晴人が頭抑えるからでしょ」

「謝ってほしい」

「誰が?」

「お母さんが」

「お母さんがなんで?」

「お母さんが俺のこと悪いって言って俺が悲しくて泣いたことは悪いことだから謝ってほしい」

「謝りたくないよ、お母さん悪いことしてないよ」

「泣かせたら謝ることもできないの? それってダメなんだよ、ルールなんだよ」

「晴人が勝手に泣いたんでしょ?」

「泣かせたら謝らないとバカだよ俺に殺されてもいいの?」

「だから晴人が悪いってお母さん言っただけでしょ?」

「殺す!!!!! 殺す!!!!!!!!!!!!」

唐突に顔中の毛細血管を拡張させて、彼は悲鳴のような叫び声を上げる。

「殺す、殺す、殺す、

殺す、殺す、殺す、お母さん大嫌い、

殺す、死ね、消えろ、

殺す、殺す、死ね、大嫌い、

消えろ、消えろ消えろ、

俺が死ねばいいの?

俺が死んだほうが嬉しいんだよね、

絶対にやっつけてやる、

殺す、」

頭の横に、頭の上に、喉元に、耳の付け根に、身体中に、うわんうわんと私を刺すためだけの言葉がへばりつく、ああ私きっとご近所さんから虐待してる親だと思われてるんだろうな、また通報されたらどうしようか、どうしたらいいんだろうか、もう勘弁してほしい、ただでさえ常識のない親って思われてるんだから、どうせ私常識ないんだから、どうせ、

「もうやめなさい、いい加減にしなさい」

私が怒鳴った瞬間、晴人が怯えたようにこちらを見る、それからまた彼の頬につう、と涙が流れる。「泣かせたら駄目なのに」、そう彼がつぶやいた瞬間に、もう彼のことを一切視界に入れたくないと心から思った。暴れる彼を脇に抱えると風呂場に引きずり入れ、乱暴に扉を閉める。この間ホームセンターで買ってきた、外付けの鍵を閉める。「もう出てこなくていい」、そう叫ぶと、また爆発のような呪詛が聞こえてきた。

洗濯機のスイッチを入れる。この洗濯物の脱水が終わるぐらいまでは、彼をお風呂場に置いておいたって死にはしないはずだ。

「しばらくそこにいなさい、もう出てくるな」

大声をあげて泣く晴人に聞こえるように、それからありったけの暴力的な衝動を発散するために、私は声をあげる。喉が痛い、と思った。続いて、晴人の謝る声、怒鳴るように謝る声が延々と聞こえてくる。

お母さんごめんなさい、俺が悪かった、俺が悪かった、ごめんなさい、俺を殴って、俺を殺して、ごめんなさい、ごめんなさい、

「うるせーよ、黙れよ、」

彼に聞こえないようにそう呟くと、そのまま脱衣所のドアを閉める。声帯を過剰に震わせながら、低い声で、ああ、と吐く。

私は言う。「死ね」。目を手のひらで覆う。

それからもう一度、長い息を吐く。

 

私は殴らなかった。

殴らなかった。

きょうは殴らなかった。

少なくともまだ殴っていない。

 

戻ってきたキッチンには泥まみれの枝豆が放置されている。どこから入ってきたのか、大きな蝿が1匹止まっていた。

 

***

 

コロナが5類になったら急に、園での行事が増えた。ランチ会だの、バレーボール大会だの。ランチ会はちょっと嬉しい。私は会話が好きだ。蓋を開けてみたらマコちゃんママ以外は全員参加していて、みんな暇なんだな、と安堵する。

チサちゃんのママはこの春、下の子供が生まれたらしい。5歳差の兄弟って、親はいつセックスしたんだろうと私は思う。チサちゃんが寝てるときにしたんですか? それって虐待じゃないですか? いつもこういうことを聞きたいと思ってしまう。でも、チサちゃんのママって弱そうだから言わない。殴ったら躊躇いなく泣きそうなお母さんランキング、堂々の1位。って、私の中でだけのランキングだけど。

「ほんとに全然寝なくて」、チサちゃんのママが寝不足アピールをすると、他のお母さんもウンウン、と頷く。「チサの赤ちゃん返りも結構あるんですよ、もう参っちゃうな〜って感じ」「分かる、うちも2年ぐらい苦しんだかも」「えー、そんなに続くの? どうしよー不安しかない」

いや、なんでそんなに明るい感じで言っちゃうわけ。私は思う。赤ちゃん返りって深刻でしょ、ちゃんと対策してないのってヤバいでしょ。そう思うのだが、チサちゃんのママはそんなに気にしていないみたいだ。あーあ、チサちゃんが非行に走っても知らないよ。彼女の結ばれた黒い髪の毛が、笑った声と一緒に揺れた。

 

「ハルトくんはどうだった? メイちゃん生まれて」

ケンゴくんママが唐突にそう聞いてくる。いきなりのことで、私は眉間にシワが寄っていなかったか、と瞬間的に考える。笑顔を作る。いいママの顔。

「どうかなあ」

そう言うと、でもやっぱり、喋る機会を与えてもらったことが嬉しくて、頭の中にある言葉がボロボロと溢れ出した。

「うちはねえ、赤ちゃんがえりは全然なかったな。晴人はちょっとチサちゃんとは違うのかも、いい子だから助かってるよ」

私はそう言って笑う。笑いながら、多分間違えたんだろうな、と思う。でも、まあ、最悪のチョイスではないはず。

リューへーくんのお母さんが「へえー」とだけ小さい声で言って、ケンゴくんのママが「色々あるよねえ」と言った。

それからケンゴくんのママが「今年、お泊まり保育ありますよねえ」と言って、赤ちゃん返りの話は終わってしまった。

 

みんな聞きたくないんだろうか、我が家がどうやって赤ちゃん返りを防いだのかを。

チサちゃんママなんて一番聞きたいんじゃないんだろうか。

ランチ会が終わってから、チサちゃんママにLINEをしてあげたほうが、気が利いているだろうか。

そんなことを思いながら、単品で頼んだほうれん草のおひたしを口に運ぶ。このファミレスはやっぱり、ほうれん草のおひたし以外そこまで美味しくない。みんなはランチセットを頼んでたけど、あんまりコスパも良くないと思う。

 

「いやあ、でもどうですか、年長さんになって」

ヒトミちゃんママがそんなことを言う。

「正直さ、まあ、コロナがこのタイミングで5類になってくれてよかったね」

「ね。1個上の子達とか、可哀想だったもん」

「お泊まり保育もなしだし、色々なしになってたよね、クッキングとか」

「ね、今年クッキングあるみたいだよね、嬉しいね」

「エプロンどうした?」

私は母親たちがのんべんだらりと言葉を重ねるのを、笑顔で聞き流し続ける。ふと、リューへーくんは晴人とのトラブルについて知っているんだろうか、と思った。1度そう思うと、聞かずにはいられない。次、私の話す順番がきたらそのことを聞こう。私は口角を上げ続けながら、そのときをじっと待つ。

「ハルトくんママはどう? 園で今年何が気になる?」

ケンゴくんママがそう聞いてきた瞬間に、私は「っていうかね」と口を開く。

「ここだけの話っていうか、まあぶっちゃけ、リューへーくんとかも、晴人にもうあんまり意地悪しないでほしいって思うことがあって」

私がそう言うと、リューへーくんのお母さんが「え」と言って、それから「どゆこと?」と続ける。

「だから、晴人とこの間トラブルあったじゃないですか、本人から聞きました?」

「え、分かんないかも」

「なんか晴人がちょっと、っていうかまあ乱暴したら、消えろって言ったって」

「え、本当ですか?」

リューへーくんのお母さんは慌てたような顔で、ごめんなさい、と謝ってくる。どうやら本当に知らなかったみたいだ。それもそれでどうなの。

「ううん、晴人も悪いところはあったから、おあいこかなとは思うんだけど。それが今やっぱり気になってるかな」

 

テーブルは静かになって、みんなが私の言うことを神妙に聞いてくれている。

 

「まあ私も」

「なんかね、それ知ってるかも」

私の言葉にかぶせるように、チサちゃんのママが口を開く。

「チサが言ってた、ハルトくんが頭押さえててリューへーくんが泣いちゃったって」

ね、とチサちゃんのママは私に向かって目線を送る。

「ああ、そういう流れなんだ。そっかあ。ごめんなさいね、リューへーって園でのこと全然話してくれなくて」

リューヘーくんのお母さんは、それからまた私に向き直る。「リューヘーって上のお兄ちゃんのせいで、ほんとに言葉遣いが悪くて。ごめんなさい」と言う。言いながら頭を下げてくれる。

ああ、これだけ丁寧に謝ってくれたら、許してあげてもいいかもしれない。そんなふうに思うのだけれども、私が口を開く前にふたたび、チサちゃんのママが「まあまあ」なんて言って、私の発言するタイミングを奪ってしまう。

「でも、チサが話す感じ、そんなに大ごとでもないって感じもしましたよ、男の子ならこれぐらいあるよねって感じっていうか」

ね、そうですよね。チサちゃんのママは私に向かって笑いかける。つやっとしたほっぺたは、あごのあたりでタプンと脂肪を蓄えていて、きっとコロナで顔が見えないのをいいことに食べまくったんだろうなあと思った。妊婦だから、おっぱいをあげてるから、そういう理由で食べすぎちゃう。いかにも女の子ママって感じだ。

 

悪い人じゃないんだ、リューへーくんのお母さんも、チサちゃんのママも。

でも、やっぱり私とは違う、と思ってしまう。

 

***

 

13時半になると、そろそろ園の子供達が家に帰る時間が近づいてくる。ランチ会の代金を幹事のカンタくんママに渡して、店を出る。当たり前の話だけど、店の外はまだ完璧なお昼だった。

 

「バイバイ」

「うん、またね、バイバイ」

そう言いながら、みんなは園のほうへ向かう。

 

ふと、チサちゃんのママとリューヘーくんのお母さんとケンゴくんのママが並んで歩いているのが目に止まった。なんとなく、私は3人のほうへと駆け寄る。

「おつかれー」私が気さくな態度を作りながら声をかけると、3人も振り向き、笑顔で「おつかれさまです」と答えた。

「3人はこれからお迎え?」私がそう聞くと、3人は頷く。「あ、でも、ちょっと寄るとこあるんですよー」とチサちゃんママが言った。

チャンス到来、と私は思う。リューへーくんのママに、普段どんな教育をしているのか聞いてみたい。それでどうやったら晴人にちょっかいをかけないでくれるのかを一緒に考えてあげたい。「私も一緒にいっていいかな?」そう尋ねる。

 

快諾してもらえると思っていたのに、3人の返事は歯切れが悪かった。

「あー、うーん、ちょっと3人で話したいこととかあって。ね」

「うん」

「ごめんね」

「あ、聞かれたくないこととか? まさか、旦那さんが犯罪でもやっちゃったとか?」

私が冗談を言うと、3人はあはは、と笑う。

「まあちょっと色々あるから、きょうは3人で帰らせて」

「そうなんだ、じゃあまた一緒に話せる日LINEするね」

 

おつかれさま、と言いながら、チサちゃんのママとリューヘーくんのお母さんとケンゴくんのママは並んで歩いていく。

 

笑いながら私は手を振る。それから、家へと歩き出す。

これから晴人が幼稚園バスに乗って帰ってくると思うと、ほのぐらい絶望が私の肺いっぱいに広がってゆくのを感じた。

 

息を吐く、それから吸う。

 

3人の後ろ姿はもう、ずいぶん小さくなってしまった。

 

彼女たちに泣きつきたい、と私は思う。

助けてほしいの、頭を撫でてほしいの、頑張ってるねと言ってほしいの。お母さんみたいにさ。架空のさ。別にそんな人、いたことないけど。

ママなんだからそれぐらいやってくれたらいいのに。

助けてくれたらいいのに。

 

甘ったるいジャムのようにべたつく気持ちを持て余しながら、私はつま先を見つめる。キャンバス素材のスニーカーの先が黒く汚れている。

また、私だけの傷つく時間がやってくる。