【小説】1人きりでは決して

手


問題は2人目ができないことだった。

 

春江ばかりが苦痛を感じる検査のあと、医師は私たちにこう言った。「お二人のうちどちらにも原因があるとはいえません」。ただし「お互い35歳を超えているから、出来づらいのは仕方のないこととも言えるかもしれませんね」。

 

陽菜がいるんだからもういいよね、と、私も春江も言えなかった。なぜなら、私たちは2人の子供の親であるべきタイプの人間だったからだ。

1人っ子の親であるためには、強い「理由」がなければならない。言葉にしたことはなかったが、春江も私も、そう思っていたはずだ。

たとえば貧乏だった、夫婦仲が悪かった、子供はもう産みたくないと妻が言った、一人だけに教育資金を注ぎ込むと夫婦で意見が合致した。なんでもいい。人によっては別に理由なんてなくてもいいのだろう。「そうしたかったから」で終わりの人だっているかもしれない。

しかし私たちは違った。私たちは「そうしたかったから」という理由で人と違う生き方を選ぶことはできなかった。結婚したら子供を持つものだし、子供の数は2人でなければならない。それはそういうものなのだ。1人でも3人でもダメだ。そこには意思が見え隠れする。

意思がないままに人生を歩んできた人間は、2人の子供を持たなければならない。そういうものだと私は思ってきた。きっと春江もそう思っている。

 

陽菜が1歳になって母乳を吸わなくなった頃、春江と私は月に3回ほどセックスをするようになった。より正確にいうなら、私が春江の膣内で射精をするようになった。セックスをしたほうがよい日が近づくと、春江から私宛てにLINEがくる。「きょう」。それから、ペコリとお辞儀をするクマのスタンプ。

春江が陽菜を寝かしつけている間、私はシャワーを浴びて歯磨きをする。濡れた髪にドライヤーを当て、ソファに座りながら、スマートフォンで野球の試合結果を眺める。野球がオフシーズンのときはYahooニュースを見る。「3億円のタワマンを買った高収入夫婦の末路」について書かれた、毒にも薬にもならないような記事を読む。

春江は寝かしつけを終えると、寝室からリビングに戻ってくる道のりで、脱衣所にしまってあるローションを膣口に塗ってくる。リビングのドアを開けると、私のほうを見て小さく会釈をし「お願いします」と言う。私は脱ぐ、春江も脱ぐ。そのまま春江に挿入をし、そして数分のピストン運動ののち射精をする。

 

射精をしたあとはいつも膝の裏に汗をかいていて気持ちが悪い。春江がティッシュで股ぐらを軽く抑えながら「じゃあ抜くね」と言う。抜いた瞬間に春江の中から精液がバタタと垂れ落ちて私の太ももに当たる。「ああごめん」「いや、ソファに付いてないから大丈夫」、と返す、その瞬間自分で自分に、何がソファだ、と思ってしまう、するともう、これ以上は生きているのも嫌だ、というような微かな絶望の残り香みたいなものが私の全身をワッと包んで消えなくなる。

どこかに消えてくれ、誰でもいいから誰かがどこかに消えてくれ。私はそう思う。春江はいい妻だ、春江はいい妻だ。私は脳の中でゆっくり言葉をめぐらせる。

ここにいる。私はここにいる。い続ける。春江はいい妻だ。

 

私も春江と同じように、ティッシュで局部を拭く。萎れたそれ全体にべったりとまとわりついたローションと、それから私たちの分泌液。拭いても拭いてもベタつきが取れない。シャワーに入りたいという思いと、もう眠ってしまいたいという思いはいつでも拮抗する。「どうする」と春江が言い、「寝る?」と私が聞く。もう少し起きていることにしたらしい春江をリビングに残し、私はスマートフォンを持って陽菜の寝る寝室へ向かう。

 

寝室のドアを開けると、陽菜が寝息を立てている。陽菜の寝顔はいつまでも赤ちゃんの頃のままで、なんでこんなに可愛い天使がいるんだろうといつでも新鮮に驚く。

 

陽菜から1メートルほど離れた場所の布団に寝転ぶと、私はそのままスマートフォンを手にし、匿名チャットアプリを起動する。アプリの掲示板には「指示してほしい」という書き込みがいくつもあり、私はその書き込みユーザーに片っ端からチャットのリクエストを送る。たいていは無視されるが、運が良ければ会話が始まる。

私はそのユーザーに、服を脱ぐよう命じる。乳首を軽く触るように命じる。太ももを撫でるように命じる。クリトリスを触るように命じる。「彼女」が絶頂に達することができるよう指示をする。

「触るか触らないかぐらいね」

「早くしちゃダメだよ」

「いきそうになったら言って」

「もう濡れてるの?」

「やらしいね」

「指早くなってるよ」

よがる「彼女」のメッセージを見ながら、的確に、彼女が興奮するであろう言葉を投げかける。

射精をした直後、性欲が湧かない状態でのほうが「指示」は成功しやすい。ここ15分ほどで何度目かの「もういきそう」というチャットの文字列を確認し、私は「いいよ」とだけ送信する。

しばらくしてから、画面の向こうの女性が「いっちゃった」と送信してくる。

「上手だった」「ありがとう」

そうコメントしてくるその人に「よかった。おやすみ」とだけ返信すると、アプリを終了した。画面の向こうのその人がうまく眠れていることをぼんやりと願う。

 

春江のもとへ行こうか、と一瞬考える。多分、春江と何か会話をしたほうがいいのに決まっている。しかし体全体が重くて、どうにも動けそうにない。

私はふたたび、Yahooニュースを開く。ニュースは更新されておらず、あいかわらず3億円のタワマンを買った夫婦の記事が並んでいる。

陽菜の寝息を聞いているうちに、私もいつしか眠りに落ちている。

 

春江が私に、不妊治療の「ステップアップ」について話したのは、6回目の膣内射精も何らの結果をもたらさなかったと分かったときのことだった。ステップアップすれば今よりも格段に費用はかかるが、年齢のことも考えると、早めに次の段階にいかなければならない。

私は少し考えたようなふりをするが、頷かなければならないことは分かっている。2人目は生まれなければならないからだ。

 

ステップアップが決まって以来、私が膣内で射精をする必要はなくなった。精子が必要なときは、春江が容器を手渡してくる。私はうなずき、トイレでAVを見ながら射精する。万が一でも陽菜に気取られることがないよう、AVはいつも音声なしで見た。なんとなく春江に悪いような気がして、好みでないAVしか使わなかった。

 

それから半年後、さらなる「ステップアップ」が提案された。1周期につき、保険適応でも15万円前後かかるらしい。春江は「私もパートに出たほうがいいのかな」と言うのだが、私が「でも陽菜の預け先がないから」と言うと、なんとなく安堵したような顔で「そうだね」と返す。

 

私は3人の人間の命を支えているのだ、と思う。春江と陽菜と、それからまだ見ぬ我が子。私が明日の朝起きて「もう仕事に行きたくない」と言ったら、その瞬間に、彼らの未来が永遠に失われる。

 

私はいつでもトロッコ問題に直面している。1人を犠牲にすれば5人が助かるとき、あなたはどちらを助けるか、というようなやつだ。自分自身の命を犠牲にすれば、自分以外全員の家族の命が助かる。その逆もしかり。

朝に起きるのがつらい、と思ったとき、いつでもこのことを考える。私には会社を退職する自由が本来はあるのだろう。しかし、家族の命を犠牲にしてまで、自分のしたいことや欲望を優先させるためだけの「理由」がない。私は春江のことを愛しているし、陽菜のことも愛している。2人目が生まれてきたら、その子のことも愛するだろう。だから私は、自分が死んでしまったとしても、彼らを殺すわけにはいかない。

 

膣内での射精が必要なくなって以来、私たちの夜にはぽっかりと時間ができてしまった。時間ができてしまった、とお互いがお互いに思っているであろうことを気取られないよう、私たちはテレビを眺める。その合間に意味のない会話をする。陽菜可愛かったね。習い事とかしたほうがいいのかな。今月ダメだったらパフェ食べようかな。あのドラマ続編できるんだって。

 

二人きりで春江と会話していると、ふと、彼女は私とセックスがしたいだろうか、と思うときがある。それとも、子作り以外のタイミングで私とセックスをしたいとはもう思わないのだろうか。もしセックスができたとして、春江は、私に触られてきちんと気持ちがいいのだろうか。楽しいと思ってくれるのだろうか。

 

そういうことを不安に思った夜はいつも、春江の髪の毛に触れてみたいような気がしてしまう。そのままセックスを始められたりはしないだろうかと思う。しかし、その目論見が実現されることはない。

春江が寝室に行ってしまったのを待ち、私はトイレに駆け込むと、こっそり自慰をする。好みのAVを見て、大変に興奮しながら射精する。だるく重い体のまま精液を便器に流す。

手を洗ってから寝室に入ると、春江はもう眠っている。

 

私はまた、匿名のチャットアプリを開く。「指示希望」の女性に片っ端からチャットリクエストを送る。「ゆうな」が私のリクエストを許可する。

 

***

 

春江から電話があったのは、ちょうど昼休憩が終わったときだった。受話器越しの春江が泣いていると分かり、私は誰かが死んでしまったのだ、と思う。上司に確認を取る前から、デスクの上に置いてあったものをカバンに入れ始める。「春江」私はそう言う。春江の名前を呼んだのはいつぶりだろう、となんとなく思う。

「大丈夫? 大丈夫じゃないよね。どうしたの、すぐ帰るから」

「うん。ごめん、ちょっと喋れない、LINEする、でも帰れなくてもいいから」

「大丈夫、有給あるし、なくてもなんとかする」

「うん、電話、1回切って文章にするね、ごめん」

通話が切れてすぐ、私は上司に午後休を取ることを伝える。誰も非難する人間はいない。会社の玄関を出たあたりで、春江からのLINEを知らせる通知が鳴った。

「子宮外妊娠っていわれた。妊娠したんだけど、場所が悪くて、育つのも難しいんだって。放置したら私が死んじゃうこともあるらしくて、今から手術。2時間後ぐらいには終わってるって」

 

ああ。

こんなふうなドラマチックさを私は求めたことなどなかったのに。

 

***

 

退院後2週間ほどが過ぎた夜、ソファーでテレビを見ながら、春江は私に言った。

「あのね、無理を承知でいうんだけど」

「うん」

「あのさあ」

「うん」

「パイプカットとかって考えたことある?」

「え」

春江は一呼吸間を置いてから、それから、もう不妊治療をやめにしたい、と言った。

「これからもあなたと、そういうことをするんだろうと思うんだけど、そのたびに妊娠するかも、しないかも、てさ、不安になったり、ソワソワしたり、そういうのがなんかもう疲れたかもって思って。それになんか子宮外妊娠ってさ、しやすい人いるらしくて。次なったらほんとにやだなっていうか。なんか、我が家は1人でいいんだって、今回のことで、なんか、運命。みたいな。なんか、そういうのが、我が家はそうなんだよって言ってくれたんじゃないかと思う」

春江は一気にそう言ってから、左手の親指を右手の親指でこすっている。

 

「え、でもそれさ」私は言う。「俺以外の人とそういうことになったら、やっぱり妊娠するかもしれないよ」「はあ?」

春江は眉を顰める。「あなた以外に誰とするの?」

 

私はそのとき、春江のことを愛していると思う。

春江とセックスがしたいと思う。春江の首筋を乳房を吸いたい尻を叩きたい膣を舐めまわしたいと思う。彼女が絶頂するまで指で膣をなぞってやりたいと思う。コンドームもせずに勃起したそれを中に挿入し妊娠してしまうまで何度も何度も精子を奥に流し込みたいと思う。春江が快楽のあまり泣き出すまで何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も肉のひだをかき分けてピストンをし狂ったように支配をし続けてやりたいと思う。

 

「そうか」私は言う。言いながら、体の中を感情がパツンパツンと押し広げて、息がしづらくなっていることに気づく。は、と息を吐く。「まあ」息を吸う、「我が家はそういう感じなのかも」

私がそう言うと、春江は「ごめんね」と言う。それから眉をしかめる。「どした?」「痛い」「え、お腹?」「うん、しばらく痛いんだって」「さするよ」「うん」

私に腰をさすられながら、春江はしばらく呻き声をあげていたが、そのうちその呻きに鼻水を啜る音が混じる。ソファに水滴が落ちて小さな音を立てる。

「ごめんね」

「なんで?」

「子供好きでしょ」

「好きっていうか」

まあ2人ぐらいみんないるよね、ぐらいの理由しかなかったよ。

私はそう思うのだが、そんなことを言っていいのかどうか分からない。彼女の苦しみが、私の「まあいるよね」程度の理由でもたらされるなんてことがあっていいのか分からないからだ。私は彼女の背をさすり続ける。

「陽菜のかわいさだけで子供100人分ぐらいあるって」

そんなことを言った私の目にもなぜか涙が浮かんでいて、こんなアホみたいなこと言って泣くのはやめろ、と思う。

 

***

 

パイプカットには22万円かかるのだそうだ。良さそうな医院のサイトを春江に見せると、彼女は「2ヶ月分しないくらいだね」と言う。体外受精の話だろう。なんと返せば良いか分からず、「ああ」とだけ答える。

 

「私さ、次の4月から働くわ」

春江はクリニックのサイトから視線を動かさず、そう言った。

「え、預け先は?」

「陽菜がね、満3歳クラスで幼稚園入れるんだって」

「え、幼稚園?」

「ね、すごいよね、もう入れるんだよ、もうそんな年だよ」

「ほんとに? 1年ずれてない?」

「私も同じこと支援センターの人に言っちゃった」

「へえー」

「なんか子育ての一時代が終わった感じする」

「うん」

「だから予約もさ、あなたがいいなら取っちゃっていいよ」

「うん」

 

来院予約、と書かれたページをクリックする。

「どうだろう」

「まあ、今すぐじゃなくても」

「うん」

 

私は春江の手をじっと見る。血管が浮いて、細かい毛が生えている。

私の取るに足らない人生に誇るべき財産があるとするなら、それは間違いなく、この女だろう、と思う。

 

春江が寝室に向かったのを確認し、私は匿名チャットアプリを起動する。指示待ちの女たちが無数に群がる。手当たり次第にチャット申請をする。「せら」が私のリクエストを許可する。せらが私の指示通り快感を覚えていく。

私はかつてないほどの高まりを感じる。